殷・周・春秋・戦国

 貝貨から貨幣の使用が始まり,方孔円形の形が出現し,定着するまでの時代に使われた貨幣のページです。大きく分けて、貝貨、刀貨、布貨、円銭の形式があります。


殷?


貝貨

銅製貝貨

銅製貝貨

銅製貝貨

骨製貝貨

大型骨製貝貨
 36.1mm

石製貝貨

石製貝貨

陶製貝貨

陶製貝貨
 南方の天然の貝を貨幣として用いたのは殷時代よりとする本が多いですが,本によっては天然貝は紀元前21世紀より,骨製貝貨は紀元前16世紀よりとするものもあります。しかし,ずっと後世まで貝貨が貨幣として使われていた地域もあるようで,ここに示した貝貨は全く何時の時代の物かわかりません。特に,右側の石製と陶製貝貨の材質は柔らかく,貨幣としては不自然ですので,埋葬時に貨幣の代わりに使われたものだと思われます。貝貨と骨製貝貨も後世の副葬品かも知れませんが,よく見られる古銭書に従って,貨幣としておきます?(^^;)



春秋・戦国



各六銖

巽?

巽?

巽?

春秋戦国 楚

 春秋戦国時代に現在の中国南部を治めていた楚の貨幣で,貨幣の形とそこに刻まれた文字の形から蟻鼻銭と総称されています。貨幣の形式としては,周の貝貨の伝統を受け継いだ銅製貝貨に分類される貨幣だそうです。蟻鼻銭に書かれた文字は20種近くあるそうですが,それでも布貨に比べると少なく,書かれている文字も「君」など中央権力にまつわる文字が多く,楚の国は他の春秋戦国の各国に比べ中央集権的な傾向が強かったのではないかと考えられているそうです。



斉明刀
 戦国中期 斉

 戦国時代の斉で使用された形式の刀貨です。「明」と文字が表に記されているため斉明刀と呼ばれる刀貨です。斉明刀は燕の明刀の模倣から始まり、また、燕との貿易通貨としての性格を持つために「明」と言う文字があるとか、燕が斉の一部を占領したとき(紀元前284〜279年)にその地域での発行だとかいろいろな説があるようです。これを買って、文献1、6の関係箇所を見ました。燕の明刀が発行される前の時期の尖首刀が発行されていた時期から「明」の文字が入っていることが分かりました。従って、「明」の文字が入ったのは斉明刀の方が明刀よりも早い時期と言うことになり、従来の認識を変えなければならないようです。


斉明刀
 戦国 斉

 戦国時代の斉で使用された斉明刀と呼ばれる刀貨です。斉明刀は上のものより細身で短く、文献1では後の時代のものとしています。


斉大刀
 戦国後期 斉

 戦国時代の斉で使用された形式の刀貨です。「斉法化」と三文字が表に記されているため三字刀とも呼ばれる大型の刀貨です。斉は刀貨が主に使われた国ですが、国力が盛んで大きく立派な貨幣が発行されたました。鋳造時期としては斉の政権が姜氏から田氏へ移った年(紀元前386年)から斉が滅亡した年(紀元前221年)のようです。


尖首刀
 春秋(紀元前550年前後) 鮮虞

 尖首刀は燕、鮮虞、中山国において使われた貨幣だそうですが、燕での出土が最も多く、他は少ないとのことです。刀貨としては尖首刀が最も古く春秋中期頃から発行されていたそうです。この尖首刀の大きさ、形がピッタシのものは文献1.では鮮虞の尖首刀とされる物でした。


尖首刀
 戦国 鮮虞?

 この尖首刀は文献1.では鮮虞の尖首刀とされる物に形が近いようですが、大きさ的には一番小さいものです。一度、鮮虞が滅ぼされて再度建国した中山国の尖首刀よりは少しだけですが、大きく(と言っても、下のものと比べても分かるように、ちょっとだけですが、・・・)、鮮虞だとするとその最後の時期のように思います。
 


尖首刀
 戦国 中山

 文献1.で中山の尖首刀とされている物と同じ形です。中山は上の鮮虞が滅ぼされ、同族の人々が再び建国した国とのことです。しかし、大きさは鮮虞の時代よりも小さくなっていますし、同じような感じの外形を持つ燕の尖首刀よりも小さいのは国力が影響しているのでしょうか。
 


尖首刀
 戦国 中山?

 文献1.では柄の直線紋の片側が1本の物はほとんど鮮虞、中山とされています。燕の尖首刀が93例紹介されている中で、直線紋が1本で燕の尖首刀とされる物は1例のみしかありません。直線紋から言うと中山の尖首刀の可能性が大なのですが、文献1.ではこの様に全体のそりが少ない中山の尖首刀は紹介されていません(かなり近い中山の尖首刀は紹介されています)。外形からは燕の尖首刀?と考えられなくはありませんが、この形の燕の尖首刀の刃の部分には郭が付いていてもおかしくないですから、中山の尖首刀の最後期の物ではないかと考えます。
 


明刀
 戦国 中山?燕?

 この明刀は「中国刀幣匯考」の255の拓とよく似た形ですので、それに従うと燕の明刀の初期型と言うことになりますが、中山の明刀の特徴は明の文字が柄に近い部分にあることが特徴とのことですから、そのことはこれにぴったり当てはまります。これとほぼ同じ形の明の文字を持つ明刀と明の文字の位置を比べて頂ければその位置の違いがよく分かるかと思います。燕の鋳造工が気まぐれで明の文字の位置を変えた物という可能性もなくはないと思いますが、燕での貨幣発行は国の管理が他の諸侯よりもしっかりとしていたとの話も何処かで読んだ気もしますので、そうであれば気まぐれの可能性は低くなり、中山のなんて思いも出てきますが、中山の刀貨の柄の部分の直線紋は1本の物が多いのでそれからするとこれは2本あり燕の物かななんてことになります。(^_^;) eBayで中山の明刀??という期待で入手したものですので、とりあえず中山の並びに載せさせて頂きます。  


尖首刀
 春秋(戦国?)時代 山戎?燕?

 文献1に示されている拓との照合では燕あるいは山戎の尖首刀の初期の形とよく似ています。上側の画像の面にある文字は土のようです。刀身の部分の幅が全体に広めですが、先の方が特に広いのは前期尖首刀に多く見られる特徴です。文献1の分類に従うと全体の雰囲気は山戎のもののような感じもしますが、燕の比較的初期の尖首刀とされるものの一部にもそういうものもありますので、どちらのものかよく分かりません。山戎の初期のものであれば、他地域の貨幣を模倣した導入期のものとなり、針首刀と呼ばれる独自の形への発展がたった3枚ですが、山戎での形態の変遷が粗っぽくですが、示せているのとか思います。この意味でこのページでは山戎初期と言うことを示すような針首刀の上の位置に仮に置かせて頂きます。  


尖首刀
 春秋時代 山戎

 この尖首刀の先端は手持ちの中では最も尖っていて、針首刀とも呼ばれる山戎が発行したものです。文献1.では前期の針首刀としています。山戎は春秋時代初期には盛んで、紀元前663年頃にも燕に攻め込み、燕が斉に助けを求めるぐらいでしたが、紀元前475年に趙に攻められたのが針首刀発行の終わりではないかという説もあるそうです(1)。いつ頃、滅んだというか、貨幣を発行しなくなったのかは分かりません。山戎は万里の長城の八達嶺の北側の地域を支配していたそうです。  


尖首刀
 春秋時代末頃 山戎

 これは針首刀とも呼ばれる山戎が発行したものですが、針首刀先端の尖り具合が次第に少なくなった後期のもので、尖首刀と普通に呼ばれるものの先の尖り具合に近くなっていますが、それらよりはよく尖っていて、文献1.では後期針首刀としています。  


尖首刀
 春秋戦国時代 燕

 文献1に示されている拓との照合では燕の尖首刀の初期の形とよく似ています。上側の画像の面にある文字は行のようです。


尖首刀
 春秋戦国時代 燕

 文献1に示されている拓との照合では燕の尖首刀の初期の形とよく似ています。


尖首刀
 春秋戦国時代 燕

 春秋時代の終わりから戦国時代の初めの頃の燕の尖首刀です。2つ上の春秋時代の尖首刀(燕のものでないのが残念ですが、・・・・)と比べると少し小さくなって、そりも小さくなって、刀身の先端の尖りぐあいも小さくなっています。また、刃の側にも郭が付くようになって、貨幣としての強度を稼ぎ、安全性を高めているものと思われます。
 1つ上の尖首刀が春秋時代のものとするとこれもそれと同時代かそれよりも少し古い(根拠は柄の幅が刃の幅と比べたときに小さいことだけですが、・・・・)のかもしれません。


尖首刀
 春秋戦国時代 燕

 燕の尖首刀です。文献2に示されている拓との照合では燕の尖首刀の初期の形と一致しています。先端の尖り具合は戦国時代のものより尖っていますが、全体の反りはあまり大きくなく、戦国時代のもののような感じです。結局はよく分からないと言うところです。文字は見あたらず、ひょっとしたら古いのかもしれません。(^_-)


尖首刀
 戦国時代 燕

 戦国時代の燕の尖首刀ですが、上のものより時代が下ります。そりも更に小さくなって、柄の幅が刀身の幅の半分ぐらいにまで大きくなっています。この柄と刀身の幅の比は時代とともに1に近づく方向に変化しており(上の2つの尖首刀の柄の幅は刀身の半分以下で、この尖首刀はほぼ半分です。下の明刀になると半分を超え、最終期の明刀では0.9を越えるほどになっていることが画像を見れば分かると思います)、刀貨の時代を見るのに参考になる特徴の一つです。


尖首刀
 主 戦国時代 燕

 文字は「主」かと思います。文献1に示されている拓との照合では燕の尖首刀の形とよく一致しています。


尖首刀
 戦国時代 燕

 戦国時代の燕の尖首刀ですが、上のものより時代が下ります。柄の幅が刀身の幅の半分を超えるところにまで大きくなっています。全体の形は尖首刀のあとの時代に現れる下の明刀にかなり近くなっています。初期の明刀と同じ形で「明」の文字がないものを類明刀という分類名で呼ぶことももあります。下にある手持ちの明刀と同じ外観で明の文字がないとは言いにくい形かもしれませんが、銭書拓にはほとんど同じ形の明刀も見られますので、尖首刀がなくなるすこし前の尖首刀、類明刀といえるかと思います。己という文字があります。


尖首刀(類明刀)
 戦国時代 燕 六

 戦国時代の燕の尖首刀で、上のものに対して類明刀という中国での呼び方をできるかと書きましたが、下に並べている明刀の最初期型と同じ形でより「明」の文字がないものとして入手しました。明刀であれば、明の文字がある位置に「六」があります。
 


明刀
 戦国中期 燕 背逆六


明刀
 戦国中期 燕 


明刀
 戦国中期 燕 背左


明刀
 戦国中期 燕 背右一


明刀
 戦国中期 燕 背右?


明刀
 戦国中期 燕 背左


明刀
 戦国中期 燕 背??


明刀
 戦国中期 燕 背右


明刀
 戦国後期 燕 背行


明刀
 戦国後期 燕 背易(1) or 中(7)

 明刀と呼ばれる燕の貨幣は戦国中期の燕の桓公(紀元前372-362)の頃に現れ、戦国後期の紀元前226年まで続く貨幣です(7)。文献1.と7.では形式を3種類に分類し、文献2.では6種類に分類しています。上の画像は文献2.の分類に従って、T、V、W、X、Y式と時代順に上から並べてあります。最後の形式は刀身と柄ともに直線的で、全体が2つに折れ曲がったような形をしています。戦国中期にあたるその4番目の形式に当たるW式からは背に「右」あるいは「左」の文字が現れます。この左右の文字は「右トウ(陶の作りだけでこざとへんがない文字)」、「左トウ」と言う2つの鋳造のための組織のどちらで作られたかを表す文字だそうです(2)「明」の文字については、国名の「燕」と同意・同音の「偃」ないし「偃のにんべんのない作りだけの文字(JISにはありません)」であるとの説もあるそうです。文献2.では「エン(偃の作りだけの文字)字刀」とし、文献3.では「燕刀」としています。また、「明」の文字を持つ刀貨はほとんどが燕の貨幣ですが、燕以外の国でも、「斉明刀」と呼ばれる斉の刀貨で見られるように、斉、趙、中山国で発行されたそうです。


円首刀 甘丹
 戦国 趙

 趙の都であった甘丹の銘を持つ戦国時代の中期の円首刀です。趙は本来布貨の流通地域であった所であったが、刀貨の流通地域であった東の燕との経済的結びつきが強まって、刀貨も発行されるようになって、布貨と刀貨がともに流通するようになったとのことです。


円首刀 白刀
 戦国 趙


円首刀 白(?)
 戦国 趙?

 円首刀は戦国時代の趙と中山国で使用された形式の刀貨です。私の手持ちの銭譜ではピッタシのものは紹介されておらず、何処の国の何時の時代の貨幣かははっきりと分かりかねますが、全体の形からは趙の貨幣のように思われます。



平肩弧足空首布
 戦国前期 周?鄭?衛?

 中型の平肩弧足空首布です。「八」とありますが、その意味も、何処で発行されたのかもさっぱり分かりません。


平肩弧足空首布
 戦国前期 周?鄭?衛?

 小型の平肩弧足空首布です。無文です。「春秋戦国貨幣地理研究」によると、平肩弧足空首布は斜肩弧足空首布の発行地域より東西に広がった発行地域があったようです(10)。「中国東周時期金属貨幣研究」では、周、鄭、衛などで発行されていたとあります(9)


斜肩弧足空首布 武
 戦国前期 趙? 周?

 中、小型の斜肩弧足空首布は戦国時代になってから出てきた形で、「武」の示す場所は春秋時代には晋(戦国時代には趙?)に属していた現在の河南省獲嘉県治とか春秋時代には周に属していた河南省武陟の西などの説があるそうです(7)。斜肩弧足空首布の多くは東周の都洛陽とその周辺地域の限られた地域からから出土しているそうです(4)


聳肩空首布
 春秋中期〜戦国早期 晋?衛?

 大型の聳肩空首布です。大型聳肩空首布は春秋中期から戦国早期にかけて発行されたとのことです。聳肩空首布は晋、衛の貨幣で(10)、晋では趙、韓、魏の三家によって滅ぼされた時点で発行が終わり、突足布に替わったとのことです(7)


聳肩空首布
 春秋晩期〜戦国早期 晋?衛?

聳肩空首布
 春秋晩期〜戦国早期 晋?衛?

聳肩空首布
 春秋晩期〜戦国早期 晋?衛?

 小型の聳肩空首布です。小型聳肩空首布は春秋晩期から戦国早期にかけて発行されたとのことです。貨幣価値が大きさとどの様な関係にあるのか知りたいところですが、分かりません。上の3つの小型ながら柄の太さとかいろいろ違う形が時代の違いか発行地域の違いか知りたいところですが、これも分かりません。


尖足布 甘丹
 戦国 趙

 甘丹は趙の首都があったところです。この大型の尖足布は一釿の価値の貨幣で、右側とか下の他の尖足布は半釿の価値で、それらの倍の価値のある貨幣と言うことになります。


大陰
 戦国 趙

 大陰は古地名で、現在の山西省の霍県の南に当たる地域だそうです。左の尖足布は半(あるいは分)と言う文字があり、大尖足布の一釿に対して半分の価値であることを示していますが、それがないタイプのものです。


晋陽半
 戦国(475BC-221BC) 趙

晋陽
 戦国(475BC-221BC) 趙
 晋陽は古地名、現在の山西省太原市(2)で、趙の首都があったところです。でも、紀元前246年には秦の領土になってしまいました。尖足布は戦国時代前期から中期にかけての形式だそうです。左は半釿を表す半の時がありますが、右側はありません。半の文字のない方が後の時代のものと思っているのですが、あっているのでしょうか。


茲氏半
 戦国(475BC-221BC) 趙

 茲氏は古地名、現在の山西省臨汾市の東南(2)あるいは汾陽市の南(7)で、「半」とする書籍(7)と「分」とする書籍(2)があります(これは分の様に見えますが、・・・)。どちらにしても「釿」という単位の重さから来た貨幣単位の半分の意味だそうです。


茲氏
 戦国(475BC-221BC) 趙

 このチョット細身の方足布は尖足布から方足布に形が変わった最初の形だそうで、文献7、9では類方足布と言う名称が使われています。茲氏の類方足布と言うことか、購入元は尖足布小異と言うことで売っていました。どちらにしても、尖足布から方足布への過渡期の布貨と言うことになります。


平匋
 戦国(475BC-221BC) 趙

 平匋というのは現在の山西省文水県の西南(2,7)あたるそうです。古い銭譜などではこれを平周としていて、そうすると山西省介休県の西にあるそうです(2)


貝地
 ?? 戦国 趙

 趙の方足布であることはどの文献でも一致していますが、何という文字が書かれているのかはバラバラです。比較的最近の書籍では、貝地(7)、楡即(2)とされ、古くからは、貝丘とか文貝とかされています。いったい何という文字が書かれているのでしょうね。


 戦国 趙

 文字としては門構えに火と書いてありますが、藺(いぐさ)のことだそうです。藺は古地名で、現在の山西省離石県の西に当たる所だそうです。この藺の文字を持つ貨幣は尖足布、円足布、圜銭、刀貨といろいろな形式があます。


中都
 戦国 趙

 中都は現在も山西省平遥県中都郷として地名に残っています。中都郷の南3km程の所には宋代まで中都寺と名乗っていた双林寺という寺院が残っています。中都郷の行政範囲が双林寺がある地域まで含まれているのかネット上の地図で確認できません。


平陽
 戦国 韓?趙?魏?

平陽
 戦国 韓?趙?魏?

平陽
 戦国 韓?趙?魏?

平陽
 戦国 韓?趙?魏?

平陽
 戦国 韓?趙?魏?

 平陽という地名は戦国時代の韓、趙、魏、衛、斉、秦の各国にあったそうですが、この形式の方足布を発行していたのは韓、趙、魏の三ヶ国と考えられるそうです(8)。文献(7)では上右の「陽」の日が下が丸い日で表されているものは趙、上左側の三角(△)で表されているものは韓としています。文献(2)では全て趙の方足布の項で説明しながらも、方足布の流通域内に趙の地域内の現在の河北省臨ショウ(さんずいに章)県西南部、山西省臨フン市西南部と魏の地域内の河南省滑県に平陽という地名の場所があったとしています。


安陽
 戦国 趙 52.1mm, 11.2g

安陽
 戦国 趙 47.6mm, 6.1g

安陽
 戦国 趙

 安陽は布貨の中で最も安価な貨幣ですが、安陽という地名は戦国時代に趙をはじめとして各地にあったそうですが、多くの古銭書では一括して趙の貨幣として、現在の河北省蔚県の西北に当たるところとしています。まん中のものが標準的なものだと思いますが、それに比べると左のものは少し大きくて、厚さも厚いもので、右のものは文字の大きさが大きいです。違いが発行時期の違いとか、鋳造地の違いとかだとおもしろいと思うのですが、違うのでしょうね。  


襄垣
 戦国 趙

襄垣
 戦国 趙

長子
 戦国 趙、韓

 左右ともに襄垣ですが、右側は襄(襄の右に支)垣で、左側は襄垣と少し文字の形が違います。この違いがどこから来ているのか分かりませんが(似た地名の別の場所だったり、時代が違ったりすると面白いのですが、・・・・・・(^_^;))、どの本にも現在の山西省襄垣県の北に当たるところとあります。

 長(長におおざと)子は古地名で、現在の山西省長子県の西に当たるところだそうです。戦国時代初期には趙、紀元前370年には韓、その後、趙、韓、趙と所属が変わり、最後には秦の支配地となったそうです(7)。期間的には韓に属していた時期が長かったそうです。


安邑二釿
 倒書 戦国(475BC-221BC) 魏

 円肩方足円跨布。安邑は魏の都。安邑は武侯が魏絳(ぎこう)から安邑へ遷都した年(武侯二年 394BC)から恵王が安邑から大梁へ遷都した年(恵王31年 339BC)まで魏の都だったので、その期間発行された貨幣です。現在の山西省夏県。魏を含む三晋地域では1鎰=32釿と言う鎰釿制の重さの単位を使っていたそうです。釿という単位が書かれている布弊を釿布と言いますが、半釿布、一釿布、二釿布の3種類があり、この時代は二釿布が主力だったそうです(それで価格も安いです)。


梁夸釿五十尚寽
 戦国(339BC-225BC) 魏

梁夸釿百尚寽
 戦国(339BC-225BC) 魏
 円肩方足円跨布。魏の恵王が安邑から大梁へ遷都した年(魏の恵王31年、339BC)〜魏の滅亡した年(225BC)に梁(すなわち魏の都大梁。現在の河南省開封市)で発行された貨幣だそうです。
 文面の意味は「梁の首都大梁で発行された釿布銭で、100枚で一寽(りつ)に当たる」と言う意味だそうですが、読み方が本によって違いますので、なんと書いてあるのかよく分かりません。文献(6)では梁充釿百尚寽とあり、文献(7)では梁夸釿百尚(當)寽とあり、左上の文字が尚か當かよく分からないのかもしれません。右下の文字は新、充、京、奇などと解釈されているそうです。中下の文字は金だと思うのですが、百としている本が多くよく分かりません。 文面の意味は「梁の首都大梁で発行された釿布銭で、100枚で一寽(りつ)に当たる」と言う意味だそうですが、読み方が本によって違いますので、なんと書いてあるのかよく分かりません。文献(6)では梁充釿百尚寽とあり、文献(7)では梁夸釿百尚(當)寽とあり、左上の文字が尚か當かよく分からないのかもしれません。右下の文字は新、充、京、奇などと解釈されているそうです。中下の文字は金だと思うのですが、百としている本が多くよく分かりません。

梁邑?
 戦国 魏

 面文の文字は2文字として梁邑とするものと漢字がコンピュータにはない文字(梁からさんずいを取って、おおざとを付けた文字)とするものがありますが、古地名を表し、現在の河南省開封市に当たるところだそうです。


 春秋末−戦国初期 宋(5) or 魏 or 韓 ??

 有耳布あるいは平首鋭角方足布。公は地名で、宋とすると公里という地名を表し、韓とすると現在の河南省洛陽市西北に当たるそうです。宋は殷(商)の末裔の国ですので、そうだったら面白いのですが、よく分かりません。(^_^;) また、この有耳布の形式の布貨は韓での戦国中期、後期の形式だとするものもありました。(^_^;)


宅陽
 戦国 韓

 宅陽は古地名で、現在の河南省鄭州市エイ(xing)陽県の東南に当たると?ころだそうです。


鄩氏
 戦国 韓

 鄩氏は古地名で、現在の河南省巩県の西に当たるところだそうです。


平陰
 戦国 周 or 趙

 文献(2)では周、文献(7)では趙としています。現在の河南省孟津、河南省落陽、山西省陽高に比定されており、多くが納得する結論は出ていないとのことです。


安陽
 戦国 燕

安陽
 戦国 燕

 面の文字を安陽とする銭書と陶易(陶はこざとへんのない文字)とする銭書がありますが、私にはどちらかよく分かりませんが、最近の中国の銭書では安陽とするものが多いので安陽ではないかと思います。左側の背には「左」右側の背には「右」文字があり、明刀の場合と同じで、「左トウ(陶の作りだけでこざとへんがない文字)尹」「右トウ尹」と言う鋳造組織で作られたものであることが分かります。現在の河北省完県にあたります。


襄平
 戦国 燕

 「平」の文字が裏返っています。「平」を「差」が裏返っていると見たり、「坪」と見たりすることもあるようですが、私にはよく分かりません。見出しは文献7の読み方に従って「襄平」としておきます。「襄平」は今の遼寧省遼陽市にあたるそうです。燕の貨幣です。燕の貨幣は刀貨から流通していた国ですが、布貨が流通していた隣国の趙などとの経済的結びつきが強くなって、刀貨、布貨共に流通するようになったようです。


平陰
 戦国 燕

 秦によって統一される前の戦国各国の文字は微妙に違っていたそうです。この貨幣は近年の金文の研究結果より「平陰」と書かれているそうですが、古い銭譜や古い銭譜をそのまま写している銭譜では「差陰」としているものが多く見られます。



半両
 戦国 秦 33.7mmφ,12.2g

半両
 戦国 秦 35mmφ,13.8g

半両
 戦国 秦 34.5mmφ,18.9g

半両
 戦国 秦 34mmφ,9.2g

半両
 戦国 秦 35.8mmφ,9.4g

 半両は紀元前336年ないし紀元前335年に秦で発行され(6)、漢の時代まで長く使われた銭文で、見ての通り、四角の孔を持つ円形の方孔円銭の形式の貨幣であり、その後、2000年を越える長い間にわたって採用された貨幣の形式です。戦国時代の秦か統一後の秦かの区別は、戦国時代の遺跡から半両かその範が出土しているもの以外は、明確に区別するのは難しい様ですが、上右側は戦国時代かなっ?と思ってネットオークションで購入しました。その認識は違っているとか何とかありましたら、ご指導よろしくお願い致します。m(_ _)m


 戦国 魏

 垣は古地名で、現在の山西省垣曲県西20里に当たるところだそうです(2)


明化
 戦国 燕

一化
 戦国 燕
 戦国晩期で秦の影響を受けた燕の国で発行された方孔円銭の硬貨です。明化について「明」は、国名の「燕」と同意・同音の「偃」と言うのであれば,銭文は燕の貨幣と言う意味になります。文献2.では明化を「燕匕」としています。紀元前226年に明刀の発行が停止され(2)、次いで発行されたのが明四で、それに次いで明化が発行されたそうです。燕は紀元前222年に秦によって滅ぼされますが、秦は戦国各国の通貨の停止までは出来なかったそうですので(6)、秦が滅びるまで発行されていて、古い時代の割にたくさん残っている(価格がそんなに高くない)のかもしれません。

 六化 戦国 斉

 四化 戦国 斉

 斉の円銭です。古い古銭書では宝六化、宝四化とされていたもので。右側の文字は宝に似ていますが、 とのことです。 六化・ 四化とすると、 は都市の地名で鋳造地を表しているか貨幣の単位を表しているかの両説があるとのことです。


参考文献
  1. 張弛:「中国刀幣匯考」(河北人民出版社、1997)
  2. 石永士、石磊:「燕下都東周貨幣聚珍」河北省文物研究所編(文物出版社、北京、1996)
  3. 上海博物館パンフレット「中国歴代銭幣館」
  4. 泉屋博古館:「貨幣」(1994)
  5. 丁福保:「歴代古銭図説」(1992復刻版)
  6. 山田勝芳:「貨幣の中国古代史」(朝日選書660、2000)
  7. 黄錫全:「先秦貨幣通論」(紫禁城出版社、2001)
  8. 黄錫全:「先秦貨幣研究」(中華書局、2001)
  9. 呉良宝:「中国東周時期金属貨幣研究」(社会科学文献出版社、2005)
  10. 陳隆文:「春秋戦国貨幣地理研究」(人民出版社、2006)


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