津の藩札


一匁 一匁 一匁
銀一匁 七福神 安永4年(1775年)〜 以此札六拾匁金壹両可渡也
 各札の右下に示した宝船が浮かんでいる海の波が右の1枚は水平線に至るまで大きく、中と左の2枚は遠くになるにつれて小さくなっているように見える。左の札の宝船はほぼ中央にあり、太陽からの光線は5本で、中では宝船がやや左により6本目の光線が小さく現れ、右は宝船が更に左側により、光線も6本はっきりと現されている。図柄も少しずつ違いますので、並べて載せました。図柄の違いが発行年などの歴史的意味があると面白いのですが、今のところただ並べただけです。また、左と中の2枚は上下の端以外擦れた跡など使用感が全く感じられず、札束としての形だけで使用された束の中の一つか、未使用品かと思います。
一匁 一匁
銀一匁 寿老人
天明8年(1788年)? 戊申
銀一匁 寿老人
寛政4年(1792年)? 壬子
一匁 一匁 一匁
銀一匁 寿老人
文化2年(1805年)? 乙丑
銀一匁 寿老人
天保元年(1830年)? 庚寅
銀一匁 寿老人
天保元年(1830年)? 庚寅
 裏面1段目の寿老人の足下に何か印のあるものとないものがあり、上段左と下段左のものはありませんが、上段右は小槌、下段中は鈴(?)、下段右は山二の商紋と言うのか家印というのか分かりませんが、発行を請け負った商人を示す印があります。どの形の印がどの商人を示すのか私には分かっていませんが、津市内には「やまに」を名乗るレストランと酢の製造メーカーがあり、両方かどちらかのご先祖だったらおもしろいなぁと思っています。小槌や鈴を使っていたのがどこかも気になりますし、印がないのが元請けが自ら発行したもので、印があるのは下請けというか分担なのかなぁ?と言うことなども調べたいと思っているところです。
三分 三分
銀三分 毘沙門天
文久元年(1861年)? 辛酉
銀三分 毘沙門天
元治元年(1864年)? 甲子
二分 二分
銀二分 弁才天
文久元年(1861年)? 辛酉
銀二分 弁才天
元治元年(1864年)? 甲子
一匁 一匁
銀一匁 恵比寿 文化11年(1814年)〜 銀一匁 大黒天 文化11年(1814年)〜
 恵比寿の上にローマ数字のV、大黒天の上にUがあり、江戸時代にローマ数字が使われているの??という感じがしますが、他にTとXIを持っていますので、ローマ数字に違いないと思っています。
一匁 一匁 銀貳分
銀一匁 毘沙門天 文化11年(1814年)〜 銀貳分 大黒天
文化11年(1814年)〜
 右の物の右側には朱の丸印で「大和」とあります。香良洲町史には大和印は「大和国内のみの通用を意味したものと思われる。」とあります。大和印だけでなく、この札には上の方に黒い印で丸さの印がありますが、私の手持ちの他の六四銀札には朱印がありますので、何か他のものと違う物だと思いますが、通貨として狭い一部に限定できるものか?と思います。まあ、建前だけで、大和国内のみと何らかの理由でしたというのならそれもありかなぁと思います。  不鮮明で綺麗ではありませんが、私にとって文化札での初めての1匁以外の額面のお札です。下には「以此札六拾四匁金壹両可相渡也」とありますが、「両」の文字が崩し字で、銀一匁の文化札がちゃんと両が使われているのと違います。何故違うのかは私には分かりません。
一匁 一匁
銀一匁 布袋  文化11年(1814年)〜
一匁 一匁
銀一匁 布袋 文化11年(1814年)〜 明治4年「壹銭五厘」押印
 同じ布袋さんの図柄の銀一匁が4枚並んでいますが、布袋さんの図柄の原盤が違うようなので、並べてみました。また、布袋さんの上にある赤い印が上の2枚は分銅型、下の「壹銭五厘」押印札は丸形と違うようですので、いつもこの組み合わせなのかどうか承知していませんが、その辺も知りたいというか、今後調べてみようかな?と言うことで取り敢えず載せました。
一匁 一匁
銀一匁 寿老人 文化11年(1814年)〜 銀一匁 福禄寿 文化11年(1814年)〜
 文化11年以降に発行された64匁建ての銀1匁札には七福神のうち福禄寿、大黒天、恵比寿、毘沙門天、布袋、寿老人の6神(弁財天は銀五分札のみにあるそうです)が図案としてあると言うことで、それが揃いました。他の図案の部分も組み合わせとしていつも同じなのか、違うのか分かりませんが、ここに載せたのは七福神のそれぞれに応じた図柄がその面の下の2つの図柄に出ています。
一匁 一匁
布袋 大黒天
一匁 一匁
寿老人 福禄寿
銀一匁 元治元年(1864年)?
 上の文化札の七福神図柄の上部には赤線と「鳥」と思われる印があり、元治元年の鳥羽藩への名義貸し札だと思われるとのことです。と言うことで、発行年を元治元年と記載させて頂きました。
銀貳匁預 銀貳匁預 銀貳匁預
銀二匁預 寿老人 発行年不明
 発行所の表記が従来の「大和古市銀札會所」から「大和封内黎民所仰 古市産物會所」に改められていて、「大和封内黎民所仰」の表記は明治になっての表記と同じですので、発行年についての印などはありませんが、明治かそれに近い時期の発行かと思いますが、如何でしょうか。証拠もないのですが、・・・・・すべての右画像上部に大和印があります。また、左画像上部左側に3つ共に異なる印が押されています。吉、直は読めますが、もう一つは文字かどうかも分かりません。印の意味も分からないのですが、発行請負の組合か何かを示す印なのでしょうか。
貳百文立 百二十四文立
銭貳百文立 寿老人
銀二匁預札を明治元年(1868年)頃改印
銭百貳十四文立 寿老人
銀一匁札を明治元年(1868年)頃改印
壹貫貳百文 壹貫貳百文
銭壹貫貳百文 寿老人 定額札 銭壹貫貳百文 寿老人 相場札
 明治元年(1868年)頃から発行の壹貫弐百(1200)文建ての額面表記の札で、発行所の表記が「大和封内黎民所仰 古市銭札會所」に変わっています。左は表の中段下部に「以此札八枚金壹両可相渡也」とこの札8枚で1両交換しますということが書いてあるバージョンで、右は「以此札時之相場引換可申也」とそのときの相場で換金しますということが書いてあるバージョンです。図録日本の貨幣(1974年)第5巻第5章の津藩のところに「慶応4年〈明治元年)五月の銀目廃止にともない、藩当局は銀札と交換するために銭札を発行した。その種類は一貫二百文・六百文・百文の三種とし、三名の商人を出替取扱所に指定した。最初の相場は一両につき銭札九貫六百文であったが、その後十貫文が定相場となり、その結果銭札も九六替と十貫替の二通りが生じた。」と書かれていて、上のものはそれぞれに対応するものかと思います。
 左のものは虫食いがひどく定額札があったと言うことぐらいしか分からないものですが、「八枚」という文字は綺麗に見えると言うだけで購入しました。(^_^;) 寿老人の右下の位置に見難いですが三ツ矢と見える赤い印があります。
六百文 相場札
銭六百文 寿老人 明治元年(1868年)
 六百文建ての額面表記の札の「以此札時之相場引換可申也」とそのときの相場で換金しますということが書いてあるバージョンです。16枚で1両と交換するという両替相場が明記されているバージョンがありますが、それは入手できていません。(^_^;)
百文 定額札 百文 相場札 百文 相場札
銭百文  寿老人 明治元年(1868年)
 右の物には96枚で金1両と交換する旨の交換レートの記述があり、中と左の物はそのときの相場で交換する旨の記述があります。相場札の寿老人の右下には発行人に係わった商家の商紋と言うのか家印と言うのか分かりませんが、山に◯二つと山に中の印があります。江戸時代の津の商家の商紋を調べたいと思いつつ時間ばかりが経っています。(^_^;)
一身田札 一身田札
 江戸時代に一身田で発行されていた銀札です。左のものは新たに発行準備していたものの、明治の初めに発行が認められず、未発行となったものとのことです。右のものは状態は悪いですが、流通していたものだと思います。京都の小野御殿(随心院:真言宗善通寺派大本山で、小野小町ゆかりの寺院)の名義を借りての発行のため表に「小野御殿御貸附御用所」とありますが、裏には「一身田改」と印が押してあります。

このページの訪問者はあなたで、 人めです。(2012.1.24以降)
もどる