寺内町 一身田


 このページでは生まれ育った一身田について紹介させて頂きます。
 一身田の町は伊勢平野のほぼ中央に位置する歴史のある町です。「一身田」というちょっと変わった町の名前は小さい頃には、律令制の頃の三世一身の法にちなんだ名前だと聞いていました(百科事典にもそう書いてありました(^_^;))が、奈良・平安時代に政治上の功績があった者や高位高官の者などに特別の勅命をもって与えられた「別勅賜田」で、その身一代に限って与えた「一身田」が地名として定着したもののようです(1)。地名の示すように農業集落としての一身田が長く続き、今の高田山専修寺の元になる無量寿院が15世紀に建設され、それが戦国期に四方に濠を巡らした寺内町を形成するようになりました。川を利用している南側を除いて堀もひょいと跨げるほどに狭くなっているところが多いですが、・・・・下のイラストは一身田の案内チラシ利用させて頂いています。
 平成15年は翌日の新聞によると5万人もの人が訪れたそうです。平成30年の寺内町まつりは11月18日(日)(例年11月初旬〜中旬の頃です)に開かれます。詳しくは、平成30年の案内は、 津観光協会の案内ページ案内チラシをご覧下さい(町は何も変わらないし、イベントも大きくは変わらないと思います(^_^;))。

航空写真で見た一身田の変化(1947年〜2011年)
国土地理院撮影の空中写真(1947年9月23日撮影)
出典:国土地理院撮影の空中写真(1947年9月23日撮影)
1947年9月23日撮影の一身田及びその周辺です。現在との違いは多いですが、列挙します。画像の下端右よりから左上に向かってくねくねと曲がりながら延びる道が旧伊勢別街道です。一身田を外れるところからは真っ直ぐな新道ができています。右下端近くには近鉄名古屋線が大きく曲がっている線路が見え、現在の高田本山駅より400mほど西に高田本山駅が見えます。一身田小学校の南側が水田になっていて、その後の一身田中学校は見られません。
国土地理院撮影の空中写真(1953年1月21日撮影)
出典:国土地理院撮影の空中写真(1953年1月21日撮影)
1953年1月21日撮影の一身田及びその周辺です。一身田中学校(1949年6月第1期工事竣工、1951年講堂兼体育館竣工で完成)が小学校の南側に見られます。北側を流れる志登茂川には取水口が2カ所に見られて、蛇行もしていることが分かります。
国土地理院撮影の空中写真(1961年9月30日撮影)
出典:国土地理院撮影の空中写真(1961年9月30日撮影)
1961年9月30日撮影の一身田及びその周辺です。県道津関線ができ、一身田の東側でほぼ90度方向を変えていた近鉄名古屋線が江戸橋駅から真っ直ぐ北に進む経路に変わっています。高田本山駅の移設・開業は1955年7月15日とのことです。
国土地理院撮影の空中写真(1968年5月24日撮影)
出典:国土地理院撮影の空中写真(1968年5月24日撮影)
1968年5月24日撮影の一身田及びその周辺です。一身田の町並みの東側に一身田団地ができています。下の右寄りの近鉄線路跡の所に柘植コンクリート工業の工場ができています。
国土地理院撮影の空中写真(1972年6月14日撮影)
出典:国土地理院撮影の空中写真(1972年6月14日撮影)
1972年6月14日撮影の一身田及びその周辺です。近鉄名古屋線の東側に志登茂団地ができ、北側に豊野団地の造成が始まっています。伊勢鉄道が東側に南北通っています。南側に一身田中学校の工事が始まっています。
国土地理院撮影の空中写真(1975年9月10日撮影)
出典:国土地理院撮影の空中写真(1975年9月10日撮影)
1975年9月10日撮影の一身田及びその周辺です。北側の豊野団地にかなりの家が建ち、一身田中学校ができて、旧一身田中学校の校舎が講堂を除いて取り壊されています。
国土地理院撮影の空中写真(1982年10月21日撮影)
出典:国土地理院撮影の空中写真(1982年10月21日撮影)
1982年10月21日撮影の一身田及びその周辺です。一身田小学校の校舎が鉄筋に改築され、体育館が工事中です。北側で志登茂川の拡幅工事が進んでいます。志登茂川は1974年7月25日の集中豪雨で志登茂川の溢水、毛無川の破堤などにより広範囲に浸水被害がでたことに対応するために工事が始まりました。
国土地理院撮影の空中写真(1988年5月27日撮影)
出典:国土地理院撮影の空中写真(1988年5月27日撮影)
1988年5月27日撮影の一身田及びその周辺です。北側で川北団地ができつつあり、南側で新しい津関線の工事が始まっています。新しい津関線の北側の以前東海近畿農事試験場であったところに三重県身体障害者総合福祉センターができています。
国土地理院撮影の空中写真(2003年6月3日撮影)
出典:国土地理院撮影の空中写真(2003年6月3日撮影)
2003年6月3日撮影の一身田及びその周辺です。南側の津関線ができあがっていて、西側に南北に国道23号線中勢バイパスが片側1車線ですが、開通しています。この写真で左下隅に江戸橋を入れたのは上流から川幅の拡幅が木造の江戸橋があるために止まっていたら2004年9月29日に洪水が再び生じてしまい、一番川幅が狭い江戸橋を掛け替え、2019年5月30日に完成し、川幅の拡幅は2020年1月現在工事が行われています。
国土地理院撮影の空中写真(2011年10月9日撮影)
出典:国土地理院撮影の空中写真(2011年10月9日撮影)
2011年10月9日撮影の一身田及びその周辺です。徐々に進んでいた高田中学校・高等学校の校舎が鉄筋化されるとともに西側に新しい運動場ができています。

一身田札 一身田札

 江戸時代に一身田で発行されていた銀札です。左のものは新たに発行準備していたものの、明治の初めに発行が認められず、未発行となったものとのことです。右のものは状態は悪いですが、流通していたものだと思います。京都の小野御殿(随心院:真言宗善通寺派大本山で、小野小町ゆかりの寺院)の名義を借りての発行のため表に「小野御殿御貸附御用所」とありますが、裏には「一身田改」と印が押してあります。
 生まれ育った一身田ゆかりの紙幣と言うことで入手しただけで、一身田札がいつ頃どれくらい発行されたのか、どんな縁があって(名義料だけの問題かもしれませんが、・・・)小野御殿の名義を借りたのかとか何も知りませんので、ご存じの方がおられましたら、お教え願います。

 一身田ゆかりの紙幣と言うことでは他に正保2年(1645年)に高田羽書と呼ばれる一匁札が発行され、射和文庫(今の松阪市射和町にあった日本最初の私設図書館)に残っていると河藝郡史に記載があります(伝聞情報ですが、2011年現在射和文庫では高田羽書の存在を確認できなかったとのことです)。正保2年(1645年)1月23日に本山の御堂、客殿が火災で全焼しているそうですので、その再建のために発行されたのかもしれません(年号からの想像で根拠はありません (^_^;))。

一身田札

一身田についてのリンク

参考文献
(1)津市教育委員会:「一身田寺内町 −町並み調査報告書−」(平成元年)
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