缶隆タイプの乾隆通寳



古銭MLで交わされた「缶隆タイプの乾隆通寳」の会話集を編集しました。(編集:Iさん)
【Iさん】題名:乾隆通寶 ******************************************************

 先ほどメチャ綺麗な穴銭の載っているGreg's Coins of the Orient
http://www.mother.com/~cwitham/coins/ching.htm (今はない)
(http://www.kareofelas.com/coins/ に引っ越し、ただしこの件に関する記述は消えている)
をゆっくり見ようと開けたところ、あれっ?と思う記述がありました。

 そこでは、ふつうの乾隆通寶は乾隆帝の治世の1736から1796年まで発行され、
缶隆の乾隆通寶は乾隆帝が譲位して太上皇として治めた1796〜1799年に発行さ
れたとありました。

 手元の本を見たところ乾隆帝は1796〜1799年には太上皇として治めていたこ
とはわかりました(簡単な通史の歴史書)。でも、古銭関係の本にそんなことに
ふれている記述は見た記憶がありません。

 どなたかこの辺のことについて、まず、上のホームページの記述が間違いで
ないか(ホームページの持ち主には失礼な話ですが、・・・)、缶隆についての
情報についてご存じであれば、お教え願います。



【NPさん】題名:Re: 乾隆通寶 ********************************************

> そこでは、ふつうの乾隆通寶は乾隆帝の治世の1736から1796年まで発行され、
>缶隆の乾隆通寶は乾隆帝が譲位して太上皇として治めた1796〜1799年に発行さ

手元の資料を調べていますが、ある銭譜に記述がありました。

戸部宝泉局 缶隆大型銭の注に、
「仁宗(嘉慶帝)即位後鋳」

ただし、出典が明らかでないのでなんとも言えません。もう少し調べてみます。


【Iさん】題名:Re: 乾隆通寶 ************************************************

> 部宝泉局 缶隆大型銭の注に、
> 「仁宗(嘉慶帝)即位後鋳」

 2カ所からの情報が合うと言うことは、その出所が1カ所に絞られない限りある
程度信用性があるのですかねぇ? このことは初耳でした(いつも初耳が続きます
が、・・)。


【PTさん】題名: 乾隆帝が太上皇に **************************************

●乾隆通寶 缶隆について

 宝泉・宝源・宝黔・宝雲の夫々の銭局に、この缶隆と云はれる古銭が有ります。
清朝銭譜を紐解いて見ましたが、鋳造の時期に関する記述は見られませんでした。
もしかすると、例のHPに書かれてゐた通りの時期に鋳造されたのかも知れませ
んが、確証が有りません。

 さうさう、宝雲局の場合特に、金隆と呼ぶ事が有りますね。


【PTさん】題名: 乾隆通寶 缶隆 **************************************

●乾隆通寶 缶隆について、続

>>> 部宝泉局 缶隆大型銭の注に、
>>> 「仁宗(嘉慶帝)即位後鋳」
>>
>> 2カ所からの情報が合うと言うことは、その出所が1カ所に絞られない限りある
>>程度信用性があるのですかねぇ? このことは初耳でした(いつも初耳が続きます
>>が、・・)。

 成る程、銭譜にも載つてゐるのですね。此れは見附け出せませんでした。若し
仮に、出所の一つが確定出来たとしても、信頼の高い一次資料であれば、其れは
其れで大変信頼の高い情報であると云へるでせう。

 信頼を高める情報の提供として、関西在住の信頼出来る有識者にこの問ひを掛
けてみた処、やはり何処かの書籍で同様の趣旨の文章を見掛けた事が有るとのお
答へが得られました。「制銭通考」にでも記載が確認出来れば、確実に正解であ
ると云へるでせう。



【Iさん】題名: 缶隆  **************************************

 先ほど方泉處の古銭Q&Aに質問していた缶隆についてのホームページ上
で回答がありました。

 結論としては、「乾隆通寳の缶隆タイプのものが、全て嘉慶元年以降
の鋳造であるということは、現時点では考えにくいところです。」と言
うことです。詳しくは、
http://www.edo.net/kosen/hosenka/qa4.html#Q21 (今はない)
をご覧下さい。このことについて、グレッグさんの言うとおりだったら、
メーリングリスト会話集にまとめる格好の話題だったのですが、どうも
否定的で、チョットまとめにくくなりました。


【NPさん】題名: RE: 缶隆  **************************************

> 結論としては、「乾隆通寳の缶隆タイプのものが、全て嘉慶元年以降
>の鋳造であるということは、現時点では考えにくいところです。」と言

確かに「清朝銭譜」には、嘉慶年間鋳の万選銭であろうと推測されています。
「H氏の新資料」では、缶隆の中に嘉慶通宝の通の之繞と同じ作りのものがあると
指摘されています。しかし、そうでないものも掲載されており、判断できません。

なお、「H氏の新資料」は「収集」の「清朝銭図説」T氏の文の中にも出てきま
すが、ごく限られた人たちに配布された「清朝銭譜」の修正増補版です。非売品です。
入手は非常に困難と思われます。


【PTさん】題名: RE: 寳と寶  **************************************

缶隆嘉慶時代鋳説は、方泉處さんに否定されて終ひましたか、実際
私も良くは分からない部分が多い為、方泉處さんの云はれる事を覆さうと迄
は考へに有りません。何時か明確な答が出る事を心待ちにしませう。


【Iさん】題名:缶隆は嘉慶?  **************************************

 チョットふるい話題になりますが、ポツンと1冊だけあるボナンザ
昭和46年7月号のH氏による清朝銭の徹底研究基本分類乾隆通寶
宝泉局銭編と言うのを見ていたら、その中の分類一覧表の缶隆の推定
鋳期として嘉慶?年となっていました。本文にはそのようなことにふ
れられていませんが、H氏は缶隆を嘉慶年間の鋳造と推定しているよ
うです。


【PTさん】題名: Re: 缶隆は嘉慶? **************************************

>>れられていませんが、H氏は缶隆を嘉慶年間の鋳造と推定しているよ
>>うです。

Kさんと云はれれば、清朝銭に結構お詳しいお方だと聞いてをります。
説(推定)とは云へこのお方が嘉慶年間鋳造を唱へてゐると云ふ事は、
信憑性高しと云ふ事も過言ではないと思ひます。

今月届いた収集誌「清朝銭図説」でもTさんが「七A−八」で同様の
趣旨の記事を掲載されてをります。


【Iさん】題名: Re: 缶隆は嘉慶? **************************************

 ボナンザ昭和48年2月号の「清朝銭京局廠別分類と廠名考」と言うH氏の原
稿があり、そこには、「乾隆缶隆銭は、すでにS先生が仁宋即位後嘉慶六年ま
で続鋳として、宝泉四、宝源三の七廠別に分類され、・・・・」と言う記述が
ありS先生という方も缶隆は嘉慶年間の鋳造との考えのようです。それをH氏
も支持されている様ですが、S先生の元の文献が何かとかH氏の根拠までは載
っていませんでした。

 ボナンザの100号までの記事には清朝銭に関する記事だけでも50件ほどの記
事がありますので、時間がとれたら、まずこれからでも近くの図書館を通じて
コピーを手に入れようかと思います。手に入ったらまた報告させて頂きます。


【Iさん】題名: Re: 缶隆は嘉慶? **************************************

 この度入手したH氏のボナンザの「清朝銭雑記帳」を少し読んだ所、
「清朝銭の京局基本分類」の中で缶隆を嘉慶年間の鋳造と考えた理由が
書かれていました。ボナンザ昭和47年1月号の清朝銭雑記帳第二回で、

「前回拙稿で乾隆通宝京局基本分類集を提出したが、書式の推移から、
缶隆銭の五書式が出拓の嘉慶銭D式銭五書式に当たり、銭式が全く同式
である。即ち『制銭通考』に記される処の乾隆、嘉慶銭の半分ずつ分鋳、
或は二分、八分の割で鋳られた該当銭と推敲されるのである」

とありました。台湾のS先生という方の根拠もH氏と同じで、文献
からではなく、乾隆、嘉慶の分類から同じ書式の貨幣が存在するという
のが根拠のようです。
 私には妥当性など全くわかりませんが、とりあえず、紹介させて頂き
ました。



【Iさん】題名: 缶隆は嘉慶? **************************************

 Gregさんのホームページを見て以来、缶隆が嘉慶年間に鋳造されたも
のかどうか気になっています。少し前からみなさんの協力が得られれば、
状況証拠ぐらいにはなるのではと思うことがありますので、書かせて頂
きます。
 缶隆の乾隆通寳は紅銭でよく見かけます。特に烏什(ウージー)局の物
は私が見た限り缶隆が非常に多いような気もします(全部?)。例えば、
私、Aさん、O保さんのホームページにある3つは3つとも缶隆で
すし、今eBayに出ている
http://cgi.ebay.com/aw-cgi/eBayISAPI.dll?ViewItem&item=305334743
も缶隆です。また、これまでのメールのやり取りの中で、PT
さんは紅銭鋳造各局の開局時期をご存じのようです。そこで、PT
さんから各局の開局時期をご披露いただき、このメンバーの持つ乾
隆通寳をみんなが見て、缶隆と非缶隆とに分けた結果を持ち寄れば、ど
こかの局が缶隆ばかりとか、ここの局は両方あるとか、この背の場合は
缶隆とかの結果が出ると思います。NPさんは紅銭の銭譜をお持ちだっ
たと思いますので、それを見て、どこかの局は缶隆ばかり銭譜に載って
いると言うのも1つの情報になると思います。その結果、どこかの局の
開局が嘉慶の初期で缶隆ばかりで、乾隆年間に開局したところは両方あ
るなどの結果が出れば、缶隆が嘉慶年間に鋳造されたものということの
傍証ぐらいにはなると思うのですが、如何でしょうか。

 これを始めるには、紅銭各局の開局時期がまず必要です。PTさん
はじめどなたかこの情報をお持ちではないでしょうか。もし、お持ちで
したら、お教え願います。

 この情報が出たら、みなさんこの調査にのりませんか?


【Aさん】題名: RE: なんちゃってがいっぱ〜い *********************

「缶隆」ですが、烏什(ウージー)局の物2孔以外、宝泉局の
ものが1孔あっただけです。ぼくの報告は、たったこれだけ
でした・・・。



【Iさん】題名:缶隆 **************************************

Aさん 報告ありがとうございます。
 
>「缶隆」ですが、烏什(ウージー)局の物2孔以外、宝泉局の
>ものが1孔あっただけです。ぼくの報告は、たったこれだけ
>でした・・・。

 現物を昨日見ての報告ではありませんが、私も烏什(ウージー)局を2
個持っており(2個とも泉友社の清朝銭500枚と言うものの中からですが、
1枚はピカピカの銅銭で?ではと思っています)、2個とも缶隆です。
今のところ5〜6個の烏什局があって全て缶隆と言うことになります。

 これで開局時期が分かって、それが嘉慶で、もっと多数の烏什局の乾
隆が全て缶隆あれば、1つの状況証拠になるのではないかと思います。
(烏什局のお偉方か母銭の金工細工師が変わり者で、チョット変わった
書体を採用しただけかもしれませんが、・・・・・ナンチャッテ)

 言い出しっぺで見るのが遅れて申し訳ありませんが、他の局も含めて
見た結果を後日報告させて頂きます。


【NPさん】題名: RE: 缶隆 **************************************

烏什局も数枚あると思います。
古銭を見る時間が無いので、もうちょっと待ってくださいね。
紅銭の銭譜が何冊かあるので、それも調べて見ますが・・・。


【Iさん】題名: 缶隆 **************************************

 手持ちの缶隆についての報告です。

 ウージー局 缶隆2枚のみ
 アクス局  満文、回文のみ 非缶隆(なんて言うのかな?)1枚
       阿十      非缶隆 1枚
       當十      缶隆  1枚
 他局合わせて3枚

「當十」の使われだした時期も傍証の1つになるかも知れません。


【Oさん】題名: 缶隆の報告 **************************************

遅くなってごめんなさい。
手持ち乾隆銭145枚中7枚が缶隆でした。
寶黔局1枚(紅銭)
寶泉局2枚
 万選銭1枚(紅銭)
寶源局1枚
烏什局1枚(紅銭)
寶蘇局1枚(私鋳銭の様ですが)

ついでに 古銭屋報告
今回は 正字文銭母銭 銭径25.7mm 至って極美 ただ鋳不足が背面にあり
惚れ惚れとする 一品に出会えました。



【Iさん】題名: Re: 缶隆の報告 *********************************

 Aさん、Oさん缶隆についての報告ありがとうございます。Aさんの
烏什(ウージー)局の物2枚とOさんの1枚の缶隆の乾隆通寳について、
缶隆以外の乾隆通寳はないということでの2枚と1枚の回答と言うこと
でよろしいでしょうか。違っていたらコメントをお願い致します。もし、
缶隆だとすると私の手持ちの2枚とネット上で見られる1枚を加えて、
6枚の烏什局全てが缶隆と言うことになり、一般論まで広げるには枚数
が少なすぎますが、可能性としては、烏什局の乾隆通寳は全て缶隆タイ
プの乾隆通寳という可能性が高くなったと思います。乾隆通寳100枚持っ
てきて、全て非缶隆と言うことはあり得ますから、6枚ぐらいであまり
大きな声では言えませんが、缶隆の比率が他局に比べて圧倒的に高いこ
とは確かです。
 烏什局での鋳造開始時期が嘉慶年間に入ってからかどうかでこれまで
の報告の解釈が大いに違ってきますが、嘉慶年間に入ってからであって、
これからも非缶隆の乾隆通寳が見つからないとか、烏什局の鋳造開始時
期が乾隆年間の最後の時期であるとかで、烏什局に限れば、缶隆が普通
で、普通の隆の字のものが少ないとかになければ、「嘉慶年間になって
からの乾隆通寳は缶隆タイプである」と言うことの傍証になるのではな
いでしょうか。
 どなたか烏什局での鋳造開始時期についての情報をお持ちではないで
しょうか?もし、ここのメーリングリストの中でこの情報が出なければ、
方泉處とか練馬雑銭の会とかにここでの6枚とも缶隆との結果を含めて
質問をしてもよろしいでしょうか?

 私としては、私の手持ちの阿克蘇局の乾隆通寳の中で2枚の背阿十が
普通の缶隆で2枚の當十が缶隆というのも引っかかっています。貨幣の
大きさを変えずに書いてある文字を変えるだけで、違った価値の通貨と
するような信用貨幣的な使い方は開元通寳と乾元重寳の昔からなくはな
いと思いますが、同じ銭文で背に當十と書いてそうするのはいつ頃から
始まったのでしょうか。古い時代のものは別にして、清代で當十の表記
が用いられたのは何時でしょうか?私の持っている銭譜の1つで見ると、
背阿十、庫十、喀十は普通の隆です。阿克蘇局の當十は紹介されていま
すが、残念ながら面の紹介がありません。

 こんなこと考えていると時間がいくらあってもキリがありませんが、
この辺で、



【Iさん】題名: Re:Q21. 乾隆通寳の缶隆について  ***************

方泉處webmaster様

こんにちは、以前、貴ホームページの古銭Q&AのQ21をさせて頂いた
Iです。

 Q21をさせて頂いた後、4月の8日に缶隆タイプの乾隆通寳について
メールさせて頂きましたが、その後、缶隆タイプの乾隆通寳が嘉慶年間
に鋳造されたと考えてもいいかも知れない事柄について私なりに調査し
た結果について書かせて頂きます。もし、回答頂けるのであれば、Q&
Aでの回答をお願い致します。なお、このメールは缶隆タイプの乾隆通
寳についての調査に協力いただいた古銭メーリングリストへも同報とさ
せて頂きました。

 私は烏什(ウージー)局の乾隆通寳を2個持っており、2個とも缶隆タ
イプです。1個は
http://www.aa.aeonnet.ne.jp/~k.iida/kazuo/coin/image0/ching/kenryuu/ugi.jpg
です。また、ネットワーク上で見られる烏什局の乾隆通寳
1.http://kyoto.cool.ne.jp/0224/z27.htm
2.http://nagoya.cool.ne.jp/n41/sinbeni.htm
3.http://members.xoom.com/ykleungx/SINKIANG/SKpuA.html
4.http://cgi.ebay.com/aw-cgi/eBayISAPI.dll?ViewItem&item=305334743
5.http://www.aimhi.com/~sinocoin/coin/xinjiang3a.jpg
  http://www.aimhi.com/~sinocoin/coin/xinjiang3b.jpg
5個が5個とも缶隆タイプの乾隆通寳です。私が普段古銭関係の情報交
換をしている古銭メーリングリストでこの件を問い合わせたところ、上
の7個も含めて、8個の烏什局の乾隆通寳が全て缶隆タイプの乾隆通寳
でした。他局での缶隆タイプの割合を考えると異常に高い缶隆タイプの
出現率です。そこで、もし、烏什局の開局(鋳造開始)時期が嘉慶年間で
あって、烏什局の乾隆通寳が全て缶隆タイプであったなら、缶隆タイプ
の乾隆通寳が嘉慶年間の鋳造だという傍証になると思います。烏什局の
開局時期についての史料をお持ちではないでしょうか。烏什局だけでは
烏什局のお偉方か母銭の金工細工師が変わり者で、チョット変わった書
体を採用しただけかもしれませんので、あくまでも傍証にしかならない
と思います。烏什局の開局時期については、乾隆年間最終期で、缶隆タ
イプの烏什局の乾隆通寳の割合が他局に比べて異常に高いと言うのでも
同じ意味を持つと思います。
 また、阿克蘇(アクス)局について私の手持ちでは
  満文、回文のみ 非缶隆 1枚
  阿十      非缶隆 1枚
  當十      缶隆  1枚
となっています。ネット上の画像を含めると阿十には非缶隆、缶隆の両
タイプが存在するようです。しかし、もし、當十の使用開始時期が阿十
よりも後で、缶隆タイプしか見られず、しかも當十の使用開始時期が嘉
慶年間であれば、これも傍証の1つになるかも知れません。これにも、
當十の使われだした時期についての史料が必要です。
 更に、この考え方を拡張させ、もし、「乾隆年間に閉局になった局の
乾隆通寳には缶隆タイプは存在しない。」と言う事実(私の全くの空想
です)があるなら、これも傍証の1つになるかも知れません。(この証
明はかなり困難だと思いますが、)
 以上のように、開局時期、銭文に用いられる文字についての使用開始
時期のついての史料があるなら、「缶隆タイプの乾隆通寳が嘉慶年間の
鋳造である」ということの有力な状況証拠が得られると思いますが、如
何でしょうか。
 仮定の話ばかり書いていますが、史料と結びつけば、仮定でなくなる
可能性を持っていると思いますので、まずは、烏什局の開局時期につい
ての情報をお持ちでしたら、この質問を適当に編集して、Q&Aでの回
答及びコメントをお願い致します。
 長文になり申し訳ありませんが、よろしくお取りはからい願います。


【Iさん】題名: 缶隆顛末記 **************************************

 かなり以前から何回も缶隆タイプの乾隆通寳が嘉慶年間の鋳造か否か
と言うことで書かせて頂いていますが、昨日、方泉處宛に烏什局の開局
時期について問い合わせたところ、早速回答がありました。

>さて、ご質問を頂きました烏什局の開局時期の件ですが、
>奥平昌洪編『東亜銭志』に乾隆35年に鋳造を開始したと
>記載されています。同書では、『皇輿西域図志』や
>『回疆通志』の記述を引用し、概ね次のような内容が記載
>されています。
>「乾隆26年に阿克蘇に銭局が置かれた後、乾隆30年に
>烏什に銭局を移設。その時点では阿克蘇局の局名を入れた
>銭貨をそのまま鋳造していたが、乾隆35年に、烏什の
>局名に改めた」

以上のように烏什局では乾隆年間に20年以上乾隆通寳を鋳造し、嘉慶年
間の鋳造期間は4年とか6年ですから、缶隆タイプの乾隆通寳が嘉慶年
間の鋳造であるという話は烏什局については全く成り立ちません。H氏
は宝泉、宝源局についての記事の中で「缶隆タイプの乾隆通寳が嘉慶年
間の鋳造である」と言っているだけで全缶隆タイプに言っている訳では
ありませんので、完全に否定された訳ではありませんが、一般論として
の缶隆タイプの乾隆通寳が嘉慶年間の鋳造であるということの可能性は
ほとんどなくなったと言えると思います。(西域は例外ってことはない
ですよね??)個人的にはH氏は宝泉、宝源局についての話も成り立つ
可能性はかなり低くなったように思います。
 でも、烏什局では全部(ほとんど?)が缶隆になったのは何故だった
んでしょうか?お偉方か母銭を作る職人さんが変わり者だったのですか
ねぇ?

 いろいろとご意見を伺ったり、手持ちの古銭を見て頂いたりしました
が、Greg氏やH氏の話を裏付ける結果とはなりませんでした。どうも多
大な協力ありがとうございました。m(_ _)m これに懲りず、何か思いつ
いたときには協力をお願いするかも知れませんが、今後ともよろしくお
願い致します。


【Iさん】題名: Yahoo の缶隆 **************************************

PTさん ホームページかこのメーリングリストで、缶隆につい
てのPTさんから考えとか、この古銭そのものについて紹介いた
だけると、勉強になりますので、よろしくお願い致します。

【PTさん】題名: Re: Yahoo の缶隆  ******************************

私の考へ自体は、糸魚川のTさんと同じで、京局(戸部宝泉局・工部宝
源局)の場合は、嘉慶年間に入つてからの鋳造だと考へてゐます。製作が
どちらかと云ふと嘉慶通寶に似てゐる部分が多い為です。
唯、文書的な確証が持ててゐない為、乾隆年間の鋳造の可能性も否定する
積りは有りません。

清朝時代の××における元号の切替り方は、皇帝が崩御された場合、其の
次の年が「元年」となります。この点、現在の日本とは違ひます。

詰り、咸豐と同治の間に「祺祥」と云ふ元号が有りますが、此れは元年が
来る前に改元されてしまつた為、幻の元号とされてゐる訳です。

と云ふ事で、乾隆年間の最後の年から缶隆を鋳造したかも知れないと云ふ
考へ方も可能になると思ひます。

紅銭の場合、烏什局の乾隆は見た範囲内では全て缶隆になつてゐます。
紅銭局では例へ其の時の元号は乾隆で無くとも、乾隆通寶として鋳造した
場合があつたさうなので、京局よりも乾隆年間鋳造説は可能性が低くなる
でせう。唯、極少い大振りの乾隆の烏什局は、乾隆年間鋳造としても差支
へないと考へます。

現時点の自説はこんな処ですね。


【NKさん】題名:Re:缶隆  **************************************

Iさんの顛末記にある年号は、1991年5月発行の本【新彊紅
銭】 朱卓鵬著 学林出版社に新彊各鋳造局の説明・各年号別紅
銭鋳造記事・紅銭年譜・拓本の記載があります。
乾隆31年(1766)阿クス局移至ウージー鼓鋳・・・・・
喀十・阿十・新十の文言あります。
缶隆についての、説明はないようですが、ウージー局の乾隆通寶
(10種)は全て缶隆に見えます。


【PTさん】題名: 缶隆  ***************************************

紅銭局の開局の時期についてお問合せがあつたやうでしたので、
T先生の清朝紅銭泉譜から引用しておかうかと思ひます。

●清朝紅銭局(新疆省)開局年

葉爾奇木局(ヤルキム)  乾隆24年開局
葉爾羌局(ヤルカンド)  乾隆26年「葉爾奇木を改名」
阿克蘇局(アクス)    乾隆26年開局
烏什局(ウージー)    乾隆35年開局
伊犁局(イリ)      乾隆年間開局
庫車局(クッチャ)    乾隆年間開局
喀什喀爾局(カシュガル) 乾隆年間開局
不知局(ふち)      乾隆年間開局
廸化局(テッカ)     道光年間開局
宝新局(ほうしん)    光緒年間開局
回文銭(かいぶんせん)  同治6年頃より鋳銭(推定)〔叛徒銭〕

其の他、同銭譜には、

「乾隆の高宗が、嘉慶の仁宗に譲位した後も高宗が存命中であったので、
嘉慶通宝8割、乾隆通宝2割の鋳銭が行われた。」

と明記されてゐます。何処からの出典かは明かでは有りませんが、嘉慶年
間でも乾隆通寶が鋳造されてゐた事はほぼ間違へ無いでせう。

話は京局へ飛びます。

又、嘉慶の中厰と缶隆の書体に近似した点が多く見られると考へます。此
れが、高宗存命中は「缶隆」を鋳造し、高宗無き嘉慶4年以降は「中厰」
となり暫くして中厰が消滅してしまつたと解釈出来れば、結構合点が行く
解釈にならうかと思ひます。

中厰と云ふのは、宝泉局主要四厰(東西南北)に分ける事の出来ない一連
の種類の宝泉局鋳造銭の仮称です。特徴はマ頭重点通ハ貝寶円頂宝です。



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