珍しい画像の部屋


とりとめのないページになると思いますが、珍しいのではないかと思われるもののデジタル画像をここで紹介させて頂きます。

焼損前の法隆寺講堂壁画
法隆寺金堂壁画  1924-1934年に発行された雑誌「寧楽」の1926年7月20日発行の第6冊の口絵に使われた法隆寺金堂壁画です。1949年に火災により焼損していますので、この画像は焼損前の画像と言うことになります。「寧楽」発行当時は印刷技術が未発達で雑誌の綺麗な画像には印画紙に焼き付けた写真がそのまま貼り付けられていたそうで、この画像はその印画紙をスクラップしたものを600dpiでデジタル化したものです。
 『寧樂』総目録がネット上にあり、1970年代後半に頂いた写真が「寧楽」の口絵写真であり、当時は雑誌の画像に印画紙に焼き付けた写真が使われていることを知ったのもネット上で、ネット情報に感謝です。
 1975年岩波書店発行の焼損前の法隆寺金堂壁画について書かれた「奈良の寺8法隆寺金堂壁画」と言う本を古本屋で見つけて、同じシリーズの法隆寺に関する本を6冊購入してしまいました。(^_^)v それによるとこの写真は2号壁半跏思惟菩薩とのことでした。

1900年代初頭頃の高田本山専修寺鳥瞰図
高田本山鳥瞰図

 三重県津市一身田にある高田本山専修寺の古い鳥瞰図です。人力車や運転席が馬車のように室外にある自動車が描かれているので自動車が出てきた最初期の時代の鳥瞰図と思われます。描かれた時代の想像ですが、高田本山の大事業は親鸞聖人の50年に一度の大遠忌か1729年から続くという17年目ごとに開かれる一光三尊仏開扉の何れかの行事の記念に作られたものと思います。これだけの大きな鳥瞰図を作るのは大変ですから、大遠忌の記念に作られたものと考えると1912年(明治45年)の650回大遠忌かと思われます。発行者の溝口嘉助は1880年(明治13年)〜1917年(大正6年)に専修寺関連の本などの発行者や著者として出版に関わっていますので、1912年であれば溝口嘉助の発行者としての活動時期と矛盾しません。自動車が日本に持ち込まれていたのが1898年とのことですので、一身田に現れたのはかなり早めの時期のように思います。因みに、一光三尊仏開扉とすると、1902年(明治35年)は車が一身田に現れるのに早すぎる様に思いまし、その次の1918年(大正7年)は車の形が運転手も室内に入る形になる(鳥瞰図の車が新型に近いとしてですが、・・・)かとも思います。ネットでチョット調べただけでのことで書いていますので、時間ができたときに更に調べたいと思います。もし、情報をお持ちの方がこのページをご覧になりましたら、情報をお寄せ願います。

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