2012年中国の旅 山西省古建築寺院・石窟の旅



 7回目ですが、8年ぶりの中国旅行(2012.8.24〜31)です。山西省に多く残っている古い寺院や石窟寺院をメインとして旅行してきました。結果として、世界遺産3つを回る旅でもありました。今回の旅行の手配は北中国京国際旅行社日本部の方を窓口にこちらで考えたコースで行けるかどうかメールベースでやりとりしながら調整して決めました。後で分かったことですが、こちらの考えたコースが可能かどうか、無理かどうかなど意見を頂いていたのは、太原空港に迎えに来て頂き、大同空港まで送り届けて頂いたガイドの于鉄奇さんでした。
 最初の予定には入れずその場でと言うか時間があったときに入れるのをお願いして追加したり、于さんのお薦めで入れたところを含めて、次のコースで見て回ってきました。
8/24(金)自宅から平遥への移動
    自宅出発5:25→津セントレア6:00→6:45中部国際空港9:20→北京11:55 CA160
    北京15:25→太原16:25 MU5270
    太原→平遥
    平遥泊 洪善駅賓館
8/25(土)平遥観光 県衙(旧県役場)、城壁、文廟、城隍廟、恵済橋、清虚観、日升昌、市楼
    双林寺、鎮国寺
    平遥泊 洪善駅賓館
8/26(日)平遥から太原への移動と途中の観光
    喬家大院(祁県民俗博物館)、天龍山石窟、晋祠、山西博物院
    太原泊 山西大酒店
8/27(月)太原市内観光後、五台山への移動と途中の観光
    崇善寺、双塔寺
    南禅寺、広済寺、尊勝寺、仏光寺、金閣寺
    五台山泊 花卉山荘
8/28(火)五台山観光
    菩薩頂、顕通寺、塔院寺、万仏閣、碧山寺
    金閣寺、竹林寺、龍泉寺
    五台山泊 花卉山荘
8/29(水)五台山から大同への移動しながらの観光
    応県木塔、懸空寺、恒山
    大同泊 大同賓館
8/30(木)大同観光
    観音堂、雲崗石窟、九龍壁、華厳寺、善化寺、城壁、大同雁塔
    大同泊 大同賓館
8/31(金)大同から帰国
    大同9:20→北京10:30 CA1120
    北京17:00→中部国際空港21:00 CA159
    中部国際空港22:00→津セントレア22:45→自宅
 中国で古い木造建築の古いランキングで次の一覧の太字のところを回ってきました。
1位 五台山 781年 南禅寺大殿
2位 運城  831年 広仁王廟正殿
3位 五台山 857年 佛光寺東大殿
4位 長治  907年 天台庵
5位 長治  940年 大雲院弥陀殿
6位 平遥  963年 鎮国寺万仏殿
7位 天津  984年 独楽寺 観音閣、山門
8位 寧波  1013年 保国寺大殿
9位 錦州  1020年 奉国寺 大雄殿
10位 太原  1032年 晋祠聖母殿
11位 大同  1038年 華厳寺蔵経殿
12位 大同  1056年 仏宮寺釈迦塔(木塔)

たぶん12、13世紀の建物というのは珍しくも何でもないとは思いますが、上の他に次の7つの建物も見てきました。
1128年 善化寺 三聖殿
1137年 仏光寺文殊堂
1140年 華厳時 大雄宝殿
1154年 善化寺 普賢閣
1163年 平遥 文廟大成殿
1168年 晋祠 献殿
元代  広済寺 大雄宝殿

但し、建築年代については疑義があるのも含まれているとは思いますが、ネットに載っていた建築年代と言うことでろくに確かめもせず書いています。間違いその他がありましたら、ご指摘の上、ご容赦願います。

 以下、訪ねたところを簡単に紹介させて頂きます。


1日目 8月24日(水) 自宅から平遥への移動
 移動だけで、観光はなしです。今回のコースは10年以上前から考えていたコースですが、当時は北京−大同間が夜行列車での移動と言うことで、計画していたものの見送っていました。数年前に北京−大同間に高速道路が開通したとのことで、北京から山西省をぐるっと回って北京に戻るコースを計画しましたが、途中の寄りたいところを入れると日数が多くなり、見送りになっていました。北京−大同間の定期便ができたとのことで今回の旅行となりました。北京−大同は朝の便しかなく、北京に1泊というのも・・・ということで、便数がたくさんある太原に北京から入って回る今回のコースにしました。

 宿にしたのは洪善駅賓館という明清時代の民家というか豪商の屋敷の四合院の形をしたホテルです。右が泊まった部屋です。


2日目 8月25日(木) 平遥観光
 平遥は城壁が完全に残っている都市として近くの双林寺、鎮国寺と共に1997年に世界遺産に指定されたところです。清の時代までは内陸との交易の中継地として、金融都市として大いに栄えたものの清朝の滅亡と共に大きく没落し、新しく開発されることなく、今に城壁が残ったそうです。世界遺産の指定によって大いに状況が変わり城内は大変良い景気に土地使用権も高騰しているとのことでした。
 県衙は昔の県役場跡として貴重なものとのことです。正門には「平遥懸署」とあり、平遥県の役所であることを示しています。門や堂などの配置はミニ故宮と言った感じです。大堂の階段の真ん中に石のレリーフがあるのも同じですが、その図柄には当然龍はなく、雲があるだけでした(写真では人影に半分隠れていますが、・・・・)。
 平遥の城壁は周囲6.4kmあり、ぐるっと回れるそうですが、城壁の北と東西は直線ですが、南側は曲がりくねっています。見学は南門(迎熏門)から城壁に上がって、少し周りを見ました。北側を見ると南大街が北に延び、遠くに少し霞んで市楼が見えています。当初の予定では城壁を少し歩いて太和門から城壁を降りる予定でしたが、工事中で降りられないと言うことで、迎熏門に戻り、城内を歩いて移動しました。
 城壁は高さが10m程あり、上部の幅は3〜6mとのことです。外側は左の写真で分かるとおり煉瓦造りで、内側は右側の写真で分かるとおり土壁のままです。一番右の写真の中央にぼやけて小さく写っているのが奎星楼という城壁の南東角にある北斗七星を祀る塔が見えています。

文廟 大成殿
 文廟は科挙博物館となっていて、科挙の答案などが展示されていて、建物として「大成門」「大成殿」「明倫堂」「尊経閣」などがあり、大成殿は金大定3年(1163年)に建てられ、中国でも古い大成殿として山西省重点文物に指定されているとのことでした。科挙についての博物館と言うことか、登「龍門」があり、観光客はそこをわざわざそこを通っていました。

文廟 龍門

城隍廟 城隍殿
 城隍廟は街の守護神をまつる廟で、建物としては城隍廟の左右に竈君廟、財神廟などが並んでいます。舞台と観客席からなる戯楼もあり、そこでは影絵の人形劇が上演されていました。
城隍廟 戯楼
 恵済橋は平遥東門城外数100mのところにある恵済河に架かっている橋で、1671年に着手された工事で現在の形の9つのアーチの石橋になったとのことです。作られてから350年近く経って写真のように大型車両は制限されているようでした。恵済橋はガイドさんも訪ねたこともない所でしたが、ベテランの観光電気自動車の運転手さんはご存じでスムーズに案内してもらえました。南門近くの城壁の上にあった平遥全体の観光対象になるような施設を示した地図には載っていましたが、他には載っている地図は目にしませんでした。まぁ、観光地ではないと言うことかと思います。
 恵済橋の近くでは硫黄のにおいが微かにして、何かと聞いてみれば、平遥で唯一の工場であるマッチの工場が近くにあるとのことでした。清代からの建物を建て直すこともできなかった貧しい街で、多人数を雇用してきたマッチ工場が衰退してますます経済的に大変な状況になるところを世界遺産指定が街を救ったと言うことでした。

東門付近の城壁内側

恵済橋

恵済橋
 清虚観は親翰門の近くにある道観ですが、平遥県博物館でもあります。チンギス・ハンの事跡を刻んだパスパ文字と漢字で書かれた石碑があり、重要な歴史資料とのことでした。石碑の材質は何というのかは知りませんが、金属、それも酸化物でない金属が混ざった物でした。「紗閣劇人」と呼ばれる晋劇、京劇などを題材とした小さな人形の展示などがありました。
 門の前に4台停まっている車は平遥城内を観光客が乗って回る電気自動車で、数年前までは人力の輪タクだったそうで、私たちを連れて廻って頂いた運転手さんも輪タクの運転手をしていたそうです。

清虚観 牌坊・山門

清虚観 龍虎殿

清虚観 純陽宮

パスパ文字と中国語で書かれている碑

碑のパスパ文字

紗閣戯人
 平遥は山西商人によって明清時代に栄えた街で、その山西商人は票号と呼ばれる為替銀行業で財をなし、その代表が日昇昌です。その跡は中国票号博物館となっていて、東西の通りには同じような票号跡が博物館になっていました。

日昇昌

蔚泰厚票号跡

西大街
 市楼は南大街の北寄りのところで、平遥の中心近くにある3層の楼閣で、現在の建物は1688年に建てられたものとのことです。

市楼

市楼北側の南大街

市楼南側の南大街
 双林寺は平遥古城と鎮国寺とともに世界遺産に指定された、平遥古城の南西6kmのところにある古寺です。創建年代は不明とのことですながら571年の修理記録が残っているとのことで、古いお寺ですが、現存建築は明代のものとのことです。ここのお寺が有名なのは建築物ではなく、2000体を超える明代を中心としたの塑像があり、「東方塑像芸術の宝庫」というキャッチフレーズで有名で、中国のお寺の塑像は明清代には見るべきものがほとんどなくなりますが、その中ではその中では異色を放った優れたものかと思います。
 双林寺は宋代に名前が替わった名称でそれ以前は中都寺と言われていたそうです。戦国時代に発行された方足布に中都と書かれたものがあり、ここの街で発行された貨幣かと想像していましたが、山西博物院の貨幣の展示室に方足布「中都」が展示されていて、その解説に中都は平遥県北西とありました。平遥古城や双林寺があるところは平遥県全体で見ると北西地域にあり、平遥古城の西、双林寺の北に中都郷という地名もあり、戦国時代の中都という貨幣を発行した都市はこの辺にあり、それが中都寺という名前に反映され、その名前が宋代まで続き、今も中都郷と言う名前に続いているのかと思いますが、資料がないので、想像の域を出ません。右の方足布「中都」は12月に日本で購入したものです。買ってしまいました。(^_^)v

双林寺

双林寺 天王殿

双林寺 四天王の2つ

双林寺 釈迦殿

双林寺 千佛殿 塑像

双林寺 大雄宝殿
 鎮国寺は平遥の東北12kmのところにある五代十国の北漢の963年の創建の古寺です。萬佛殿は創建当初の建物が残っていて、中国での木造建築物の中では古い順で6位になるそうです。また、堂内の塑像14体は五代の作とのことでした。

鎮国寺 天王殿

鎮国寺 萬佛殿

鎮国寺 観音殿

3日目 8月26日(日) 平遥から太原への移動と途中の観光

 喬家大院は平遥の東北35kmにあり、すごく広い駐車場にまずはびっくりしました。連休などには1日に10万人もの観光客が訪れる大観光施設で、駐車場から喬家大院の間には門前町よろしくおみやげ屋さんが続いていました。喬家大院は喬貴発という創業者が内モンゴルで成功し、郷里に戻って更に成功を収めて、今に残る300室を超える大きなお屋敷を清代の乾隆から嘉慶年間に建てたとのことです。訪ねたのが日曜日と言うことで最初は観光客が少なかったのが、みるみる間に移動もままならないほどに増えていました。  四合院形式の小院をたくさんつなぎ合わせた大院と言うことですが、山西商人の大邸宅というのはこういうものかという見本としていきましたが、ここは紅夢という映画のロケ地として使われてから大観光地化していて、人が多すぎるのと、どうせ全部をゆっくり見ないのであれば、平遥に残る四合院の建物や他の大院でも良かったのかな?と行ってから書くのも変ですが、言うのが感想です。
 天龍山石窟は大原市南西40kmのところの山の上に東西に10数窟ずつある石窟です。上野国立博物館で天龍山石窟のものをずっと以前に見たことがあり、気になっていた石窟と言うことで今回寄ってきました。中国でも代表的な石窟だと思いますが、残念ながら大きく破損しています。石窟の上歩いて20分程のところと下30分に駐車場があり、上の駐車場から石窟に下り、見てから下の駐車場に下りました。その方がずっと楽なコースになるかと思います。石窟の仏像などはほとんどが破損しているのが残念でしたが、これも仕方ないことかとは思います。ネット上には20世紀前半に破壊、盗難に遭ったと書かれていますが、当時の石窟の管理者が日本の美術商に売り払ったとのことで、優れた彫刻などは大英博物館やハーバード大学などに現在あるものの、持ち出された彫刻の9割は日本にあるとのことでした。ただ、第9窟を覆う形で建てられている漫山閣にいた寺の人は日本人が破壊、強奪したというように説明しているとのことでした。誰が誰に売り、何処にあったものが何処に行ったのかはちゃんとまとめられていてるとのことでしたので、ここの石窟にも敦煌の道士の様な人がいたのかと思います。売った方も買った方も文化財破壊と言うことではどっちもどっちですが、1920年代ではそれはそれで仕方ないとは思います。でも、寺の説明は責任転嫁は激しすぎるかと、・・・・・・
 晋祠は大原から南西25kmの所にあり、天龍山石窟へと上る道路のそばにあります。晋祠は北魏の時代に晋の初代の唐淑虞まつる祠と始まったものとのことです。1961年の最初の国家重点文物として宋代と言うことで晋祠として指定されています。聖母殿(1132年)、献殿(1168年)が歴史深い建物として残り、樹齢が3000年とも言われる周柏と言う樹木や勢い良く綺麗な水が湧き出す難老泉と言う湧き水などもある壮大な境内を構成しています。
 山西博物院は2004年に現在地に移転した新しい大きな博物館です。展示室は4階建てで、1階が企画展示、2階に「文明のゆりかご」「夏商の足跡」「晋国の覇業」と春秋時代までの展示室があり、4階に「方圓世界」という貨幣の展示室があります。他は時間がなく、見て回れませんでした。貨幣コレクションとしては貝貨から始まって、戦国時代の方足布までが充実していました。博物館としてはフラッシュ、三脚を使わなければ、撮影可というのはいいですね。少し暗くて手ぶれいっぱいですが、いっぱい写真を撮ってしまいました。

4日目 8月27日(月) 太原市内観光後、五台山への移動と途中の観光


崇善寺
 崇善寺は大原市内のお寺で、ホテルの近くと言うこともあり、訪ねたときには朝のお勤めの時間で大きな大悲殿は人でいっぱいで、あふれた人がお堂の中のお経にあわせでお経を唱えていました。市内でお寺として機能している唯一のお寺で、お年寄りであふれていました。
 双塔寺は永祚寺というのがお寺の名前として正式の名前ですが、塔が2つあると言うことで、双塔寺と呼ばれています。双塔寺のお堂や塔など建物全てレンガ造りというメッチャ特徴のあるお寺でもあります。牡丹の花壇は立派で花の時期に来れば、綺麗だと思います。レンガ造りのお堂も立派でしたが、2基の13重の塔は立派で見応えがありました。私が目にしたガイドブック、HPはほとんど最上階まで上がれるとどれも書いてありましたが、11層まで階段であり上がれました。階段もないのにどうやって上がるのでしょうね。上った方でない塔は上まで上れるのかもしれませんが、1つだけ11階まで階段があるとの中国の観光案内サイトがありましたので、たぶん、11階までなんだと思います。(^_^;)
 お寺としては良かったですが、それよりも何よりも大原の空気が汚く、画像の向こう側の塔が少し霞んでいるのはそのためかと思います。この旅行では一番空気が汚かったこの日から治まっていた喘息が出るようになってしまいました。

双塔寺大雄宝殿

南禅寺大殿
 南禅寺は忻州市五台県東冶鎮にある小さなお寺です。田舎にある小さなお寺と言うことで、唐代の会昌の廃仏を逃れて残った唯一の仏教建築物で、782年に再建された大殿が中国で一番古い木造建築物として残っています。堂内の塑像も唐代のものでいいものかと思いますが、残念なことに小さな2体が強盗に持ち去られたと言うことで引きちぎられた跡が痛々しく残っていました。
 南禅寺から広済寺に向かう途中でお昼となり、道路沿いの食堂に入りました。ロバの肉の鍋があると言うことで選んだ食堂です。中国の田舎の食堂はふつう日本人の胃には過酷な場所かと思いますが、鍋物と言うことで加熱すればそういうこともないということで、食べてしまえばどうということもないですが、始めてロバの肉を食べました。看板の真ん中の馬偏に戸の文字がロバです。
 広済寺には大雄宝殿に創建時の30体の塑像が残っていて、華厳三聖の形式の本尊があるとのネット情報から訪れましたが、左のように解体修理中で残念でした。大雄宝殿は中国の全国重点文物に2001年に指定された建物ですから、2013年5月末に予定通り修理が済めば立派になるのだと思います。修復中の写真しかありませんので、「旅遊・撮影・古建築」というブログでの広済寺を紹介させて頂きます。

ロバの肉の鍋

広済寺大雄宝殿

食堂の看板
 尊勝寺は天王殿、大雄宝殿、三仏殿、通天殿、蔵経殿、文殊殿、万蔵塔と中心軸に並んだ建物が所狭しと並んだ伽藍を有しています。伽藍の端の塔は民国時代に建てられたそうですが、唐代に創建され、北宋天聖4年に再建された歴史もあるお寺ですが、何度も五台山に来ているガイドさんも来たことがないということですし、そんなに古い建物は残っていないのかも(ここは伽藍が全体として揃っていて、塔もあって、コースの途中で訪ねやすい[でも、太原から五台山のコースでは逆からだったら絶対見落とさない大きな看板も見落として通り過ぎてしまいましたが、・・・]と言うことで選んだので、建築年代までは調べないまま訪ねました。(^_^;))・・・・このページを書きながらネットで調べたら、現在の寺院は民国時代の代表的建築物とのことで、山西省重点文物と言うことでした。でも、右の写真の奥の石憧は北宋天聖4年のものとのことで、部分的には古いものも残っているのかもしれません。
 仏光寺は北魏孝文帝のときに創建し、会昌の廃仏で破壊されたものの、その後すぐに復興し、857年に再建された大殿が中国で3番目に古い木造建築物として残っている古刹で、1961年に全国重点文物に仏光寺として指定されています。大殿は唐末期の建築様式を伝える立派なお堂で、中には唐代の塑像も多数残っています。大殿の扉は再建時の扉と言うことが落書きの年号から明らかになり、落書きがガラス板で保護されていました。木造扉としては中国最古の扉と言うことでした。ここを見ている間に雨が降り出し、軒下で雨宿りをする羽目になり、小降りになってから、大殿を出て、1137年にできた文殊殿に駆け込みました。と言うこともあって、雨が気になり、文殊殿の写真は取り忘れました。(^_^;) 文殊殿は写真の石憧の左側にあります。写真に写っている石憧は唐乾符4年(877年)のものとのことでした。
 次に金閣寺に向かいましたが、土砂降りの雨があった後で、少し遅い時間に行ったため、雨の中を高い階段を上りましたが、上がったところで、ちょうど管理人さんが帰る車の後ろ姿を見るタイミングで、当然、中には入れませんでした。ここは日本人でただ1人三蔵となった霊仙が修行をしたお寺とのことで、1987年に建てられた顕彰碑がありましたが、残念ながら泥だらけでした。

5日目 8月28日(火) 五台山観光

 五台山の観光の日です。五台山台内は原則自家用車での観光禁止と言うことで、南の高速道路からの入り口には大きな駐車場があって、原則通り車は通さず、シャトルバスを利用する形ですが、私たちが五台山に向かった金閣寺の前を通る山越えの道は駐車場がなく、この道からは車は入れますが、車で回っていて、警察に捕まると罰金と言うことで、シャトルバスを利用しました。ただ、同じホテルを朝出るのにシャトルバスを待っていたのは私たちだけで、他の宿泊客は車でどんどん出発していきました。
 ホテル前でシャトルバスに乗って、2度乗り換え、菩薩頂の北側というか裏口に着きました。菩薩頂は文殊菩薩の居所という考え方から来た名前と言うことです。真容院というチベット仏教の寺院ですが、清代には五台山を参拝する皇帝の宿舎と言うことで、屋根が黄色の瓦が使われていました。
 顕通寺は寺伝では漢代の創建とも言われる五台山の中心寺院です。伽藍には中軸線上だけでもたくさんのお堂が建てられていますが、なかでも大雄宝殿(木造)、無量殿(レンガ造)、銅殿(真鍮製)の3つが有名です。銅殿は金めっきが施されて金色になっています。
 塔院寺の大白塔は中国に19粒もたらされた仏舎利が納められた塔とのことです。チベット式の塔で、高さは50mから75.3mまで見る本、資料によって違うのでよく分かりませんが、五台山全体のシンボルと言える大きな白塗りの大きな塔でした。
 塔院寺にはもう一つ小さな文殊髪塔とも小白塔とも呼ばれる塔があり、文殊菩薩の髪の毛が納められていると言うことでしたが、言い伝えと言うことで、・・・・・また、この塔の高さも7mとか10mとかあってよく分かりません。(^_^;)
 万仏閣の文殊殿にはかつて塑像がたくさんあったことから名付けられたとのことですが、文化大革命で破壊されたとのことです。しかし、熱心なお参りをする参拝客がたくさん訪れていて、ここにお参りするために五台山を訪れる人もいるとのことでした。
 塔院寺や万仏閣の南側には広場があり、そこからは菩薩頂から続く寺院群や周りの丘の上にあるお寺などがよく見えました。
 今回の旅行で参考にした小学館2005年発行「中国悠遊紀行14」の16ページの万仏閣の写真は間違って尊勝寺の写真が使われています。古くなってしまった本で、余計なお節介かとは思いますが、・・・・・(^_^;)
 碧山寺は中心軸に天王殿、雷音殿、戒壇殿、蔵経楼と並んだ伽藍を持つお寺で、戒壇殿はその名の通り、戒壇があり、五台山唯一の戒壇とのことで、上海にある玉仏と同じときに中国に来た玉仏があります。上海の玉仏は観光客をいっぱい集めていますが、ここの玉仏は誰もいないと言うことはないですがと言う程度の観光客しかいませんでした。
 碧山寺へのシャトルバスは大型のシャトルバスの終点が顕通寺の東側あたりにあり、万仏閣の後で広場からの眺めを楽しみ、その後、近くの食堂で食事を取ってから、道路に出ましたので、バスの乗り継ぎが必要と言うことと時間がかかりそうと言うことで、白タクで碧山寺まで来ました。帰りも門の前でしばらく待っていてもシャトルバスはなかなか現れず、ガイドさんが客がいっぱい待っていることを電話で伝えると、そば屋の出前よろしくもう出たとか言う話で、しばらくして、バスに乗れました。碧山寺からはバスを2回乗り換えて、ホテルまで戻ることができました。ガイドさん曰く、前まではシャトルバスで何の不自由もなかったが、今回は懲りた、車を使えば良かったとのことでした。
 ネットでのニュースによると五台山は2012年5月より7000万元をかけて寺院の修復、環境整備に乗り出したとのことで、五台山台内では道路の工事とかをいっぱいしていました。工事としてはトイレが昔の中国のままの大きい方も床に穴が開いているだけ(書くのもはばかられる様な状態のところもあって・・・)でしたが、片っ端から工事中で2013年には、全部が水洗トイレに衣替えして、道路も拡幅されて綺麗になっているのではないかと思います。台内で利用したトイレとしては碧山寺前のトイレだけで水洗化されていました。
 ホテルの戻ってから、台内の南西方向にある諸寺を車で回りました。まず、前日雨で閉まっていた金閣寺を再び訪れました。前日とは全く違う晴天でした。中心軸に沿った建物だけでも山門、大悲殿、大雄宝殿など立派な建物が並び、大雄宝殿の後ろも何か再建中か新築か分かりませんが、建築中のものまでありました。千手観音さんは17.7mもあり、五台山で最大の千手観音とのことです。
 竹林寺は慈覚大師円仁が逗留したお寺と言うことで、ガイドの于さんのお薦めで訪ねました。古い建物としては塔が1つあるだけですが、現住職の力でほとんどの建物が同時進行に近い形で建設中ないし、完成したばかりという感じで伽藍の整備が進んでいました。ここは文化大革命でほとんどのものが破壊されたとのことです。
 龍泉寺は龍を封じた泉があると言うことで付いた名前だそうです。多くのお寺にあるのが、108段の階段でここの上には石の彫刻でできた牌坊があり、その北側に天王殿、観音殿、大雄宝殿と1列に並らんだ、山西省の文化財に指定されているお寺です。

6日目 8月29日(水) 五台山から大同への移動しながらの観光

 朝から五台山の真ん中の道路を北に抜け、峠への途中に突然巨大な駐車場が道の脇に見え、何かと思ったら、北側から五台山を訪ねる観光客がシャトルバスに乗り換えるための駐車場だそうです。私たちが五台山に入った西からの山越の方面もそちらに空港が計画されているとのことで、それができると西も北も観光客の乗用車を閉め出すようになるかと思います。どうなるのか分かりませんが、・・・・(^_^;)
 東台頂への登り口の峠から北側はガイドさんの于さんも見たことがないという程の晴天に恵まれ、いい景色でした。v(^_^)
 大同への移動しながら途中の観光地に寄るという移動日ですが、応県の木塔と懸空寺の2つが今回の中国旅行のメインイベントの日でもありました。計画では恒山→懸空寺→応県の木塔と回る予定でしたが、それでは食堂がないと言うことで、逆コースにしました。五台山へと向かうときには南禅寺から五台県に向かう途中で小さな食堂でロバの肉を食べましたので、そんな心配はいらないとは思いましたが、しゃぶしゃぶのおいしいレストランが応県の木塔の前にはあると言うことで、まずは応県の木塔に向かいました。五台山の空港を五台山から見ると西に山を越えたところに計画中と書きましたが、鉄道の五台山駅は北側に山を越えたところにあります。

 応県の木塔(仏宮寺釈迦塔)は1056年に建てられた中国最古で最大の木造の塔とのことですが、塔は次第に傾いています。9層の木造の上にある塔刹まで入れた総高は67.3mもあるとのことです。古いガイドブックほど上まで上れるように書いてありますが、右の大きな塑像がある一層目の中に入れるだけでした。西側からの塔の写真の三層目の右側(南西側)は柱がけっこう傾いているのが分かるかと思います。直接上層部の荷重を受けている柱ではないはずですが、大変な傾き方かと思いました。20年ほど前から解体修理を請け負う業者を世界中から募集しているが、難しいと誰も応募せず、その間にどんどん傾いているとのことで、このままでは1000年近くの間、大地震にも耐えてきた巨大な塔が崩壊するのでは思います。
 応県の木塔を見てから、近くのレストランでお昼としてしゃぶしゃぶを食べてました。高いので頼みませんでしたが、神戸牛のメニューまでありました。
 応県の木塔から高速道路は1本道で高速道路のインターも応県の木塔のためというと言い過ぎかもしれませんが、そんな感じですぐに高速に乗れ、がらがらの高速道路が懸空寺の近くまで通っていました。

応県の木塔南側

応県の木塔西側

応県の木塔北側

応県の木塔東側

第一層釈迦如来

 懸空寺は左の写真を見てそこに写っている人の大きさと比べて頂ければ、どれくらいの高さの崖の途中に懸空寺があるのが分かって頂けるかと思います。何故崖の途中にお寺があるかというと、お寺の高さの位置に桟道が通っていて、その一部を少し拡張してお寺にしてしまったというか、街道の途中にお寺があると言う感じかと思います。お寺を支えているのは崖に穴を空けてそこに差し込んだ太い柱で、崖の外に出ている分の倍、柱全体の2/3が崖の岩に差し込まれているとのことでした。狭いところで、写真を撮るのに立ち止まると横を人が通れないところがほとんどでしたので、写真をあまり撮れなかったのが、残念でした。
 お寺としての創建は6世紀、北魏の末期とのことで、その後、金、明、清代に修復が繰り返され今に至るそうです。一番高い位置にある三教殿には釈迦、老子、孔子の三尊があり、仏教、道教、儒教の混淆したお寺です。
 懸空寺も恒山と言う山にあるお寺なので、次に訪れたのが恒山と言うのも変なのですが、広大な恒山のロープウェーで上れるところの近くだけを見てきました。ロープウェーは午後3時以降は片道切符しか売らず、午後5時で運行を止めると言うことで、3時過ぎに着きましたので、片道ずつ切符を買ってロープウェーに乗りました。
 5時にはロープウェーに戻らないと歩いて駐車場に戻る羽目になるので、左の写真の真ん中の右下あたりまで、ざっと見て回っただけとしました。ガイドさんの話では今も香港や台湾のお金持ちの寄付による建物が崖の途中にできているという話でした。
 懸空寺の近くのインターから大同までの高速道路が開通していました。ただ、トンネルの中の照明もまだないなど最終的に完成していない状況での開通で、使っている車も少なくがらがら状態で、昼食場所のために若干遠回りのコースに変えましたが、時間的にはこの方が近回りになったかと思います。

7日目 8月30日(木) 大同観光

 大同市内のホテルを出て、世界遺産の雲崗石窟に向かう前に、その途中の道路の右側というか北側にある観音堂と言う遼代に創建したお寺に寄りました。お寺の中心軸に戯台、腰門、観音殿、三真殿と並んで、東側にずれた位置に山門があり、その前に三龍壁があるという配置でした。順治8年(1651年)再建の観音堂には清代としては立派な観音さんがあり、その周りにも塑像があり、壁は何かの物語かぎっしりと装飾されていました。
 雲崗石窟は中国三大石窟の一つで世界遺産のにもなっているところです。石窟から離れた位置に駐車場ができて、そこから石窟までの間に大きなお寺を通り抜けて、第1窟から順番に見て回りました。すばらしかったのですが、彩色が綺麗に残る第9窟からの五華洞と言われるところが工事中で見られませんでした。石窟は基本的には砂岩のようでかなり脆そうで、実際、地下水がしみ出している面の彫刻は溶けるような感じに劣化していました。それは自然現象だから仕方ありませんが、洞窟の風化した部分の補修がもうチョット丁寧にと言いたくなる補修がいっぱいありました。と言っても、世界遺産として登録されているところですから、すばらしいところに違いはありません。

西部石窟群

中部石窟群

東部石窟群の第3窟周辺

第1窟

第2窟

第3窟

第5窟 釈迦牟尼坐像

第8窟
金翅鳥に乗った鳩摩羅天

第8窟
白牛に乗った摩醯首羅天

第16窟 如来立像

第17窟 菩薩交脚像

第18窟 右脇侍

第18窟 如来立像

第18窟 左脇侍

第18窟 如来立像正面

第19窟

第20窟

第20窟

第20窟以西の西部石窟群 飛天

第20窟以西の西部石窟群 飛天

第39窟 塔廟窟
 大同市内の九龍壁は中国国内でも最古最大のものだそうで、朱桂(明太祖朱元璋の第13子)の邸宅前の障壁だそうです。障壁は現在位置より道路に近い位置にあったのが、近すぎて写真を撮る場所が取れないために、現在位置に少し移設されているそうです。訪ねたときは朱桂の邸宅の復元工事をしていました。大同市内は市長さんの大方針のもと城壁も市内の主な施設を復元工事をしていて、旧城壁内は至る所工事中で、城壁も3/4が完成していると言うことでした。
 華厳寺は遼代創建された古刹で、1961年の最初の全国重点文物に華厳寺としてお寺全体が文化財に指定されています。左の大雄宝殿(1140年)と右の蔵経殿(1038年)などの建物が古い建物として残っていますが、境内の建物、中の仏像(右下)、門前町(下と左下)まで新しく作っていました。明清以降の中国の彫刻には興味が持てませんが、ここ数年に彫られたと思われる彫刻はなかなか良いものだと思いました。
 善化寺は唐代の創建のお寺ですが、遼代に灰燼に帰し、遼、金代に再建された建物が山門、三聖殿、大雄宝殿と中心軸に並び、西側の普賢閣などと共に伽藍を構成しています。山門の前には五龍壁があり、別に見たい訳ではありませんでしたが、これで大同市内にある三龍壁、五龍壁、九龍壁と見てしまいました。
 善化寺前に大同の城門がありそこから城壁に登りました。城門から雁塔まで歩きましたが、観光客は数組のみ広い広い城壁はひと気が全くないとは言いませんが、ガランとしていました。城壁の内側は綺麗に完成していますが、外側はごらんの通り大工事現場となっていました。城壁が全部復元完成すれば、かなり見応えのある観光施設(新しく作ったもので、観光客が来るかどうかは分かりませんが、・・・・(^_^;))になるかと思います。
 雁塔は大同市の城壁の南東角近くにあり、街の守り神的な建造物だと思います。平遥にも同じ位置に塔がありました。大同雁塔はガイドブックによると明代の建築と言うことでしたが、行ってみたら新築されていました。明代の建築物言えばそう古い訳ではありませんが、それなりに歴史的建築物と扱ってもいい時代のものと思いますが、城壁全体の復元工事に伴って壊してしまったようです。それも元のままというなら古くて再建が必要だからと言うこともあったかもしれませんが、構造も違い全くの新築のようでした。
 これで1週間にわたる今回の旅を終え、後は帰国するだけになりました。

8日目 8月31日(金) 大同から北京経由で帰国

 朝一番ホテルの朝食を取って、ホテルを出て、北京へ移動し(大同9:20→北京10:30 CA1120)ましたが、夕方の便(北京17:00→中部国際空港21:00 CA159)ですので、市内のスーパーでおみやげを買って(交通費を考えると全く割には合わないですが、・・・・・(^_^;))、時間通りに飛行機に乗りましたが、着陸が何故か50分程遅れて、空港から船で津に戻る最終便が22発と言うことで、離陸したときには船で帰ることをあきらめていましたが、着陸したのが、21:20頃でこれは間に合うかもなんて、期待を抱いていたら、ターミナル直前で停まってしまい、21:40過ぎにやっと飛行機を降りることができ、旅行バッグがすぐに出てきたこともあって、入国手続きも順調に済んで、船着き場まで走りに走ってぎりぎり間に合いました。一緒の飛行機で、一緒の船に乗ろうとしていた何人かと一緒に走りました。一緒に走った全員が間に合ったかに思いましたが、仲間が間に合わなかったのかおじいさん1人がせっかく船に乗り込んでいたのに船が出るときには降りていました。待ってやれなかったのかなぁとは思いますが、名鉄にまで戻って、電車で戻るのは大変でしょうね。
 今回訪ねたお寺などの塔でここに載せなかったのも含めて、15塔を中国・韓国の塔のページ掲載してありますので、よろしかったらご覧下さい。
 最後に、このページについて私が疑問に思っていたまま書いた点について2013年になってからも情報を頂いたガイドの于さんに感謝の意を示させて頂いて、終わらせて頂きます。

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